矢切と矢作

 昨日、岩盤浴に出かけた。わずか25分の「盤上浴」であるが、汗がひとしきり大量で、そのあとの水分補給が美味しかった。その前に、気になっていた栗山浄水場に寄った(拙ブロ「|2|(絶対値2)」07年12月2日付)。幹線道路を離れ、住宅地を抜けると、そこに、鎮座していた。もう一度、繰り返すと、「栗山浄水場」は千葉県内では千葉市内矢作にある塔と同時期に建設された施設であり、戦禍をまぬかれて、当時の姿に近い容(かたち)でもって遺(のこ)っているそうである。現地の案内板によると、「配水塔」が正しいようで(浄水場はあたり一帯の施設を示している)、塔の高低差圧でもって、現在も配水を行なっているとあったけれども、どういうことか、わたくしには、さっぱり分からない。高低ということであれば、配水塔に向かうまでの道のりは予想外に上っており、暖かなお日和であったから、ここで、もう汗を流していたのかもしれない、その作用の所為なのだろうか、あとの岩盤で、残りがいっせいに噴きだしたのであろう。
[栗山浄水場“の”配水塔]
栗山画像0001

 矢切の地名は「谷切れ(やきれ)」から来ているのでは、と知った。松戸市のサイトに同市の標高(=海抜)が紹介されていて、おおざっぱに記せば、東側が台地上(最高地点は32.4メートル〜21世紀の森と広場内生命の森付近)であり、西漸するにしたがって、標高は下がり、同市栄町周辺では5歳児の背丈文部科学省・平成19年度学校保健統計調査速報より)ほど(110センチ)になる。矢切の渡しがある江戸川付近も、もちろん台地より低く、現在の「矢切」辺り一帯はその北隣を「小山(こやま)」と謂い、南を「栗山」と呼んだ(現在も同じ)。この二つの山に沿って谷を切っているから、「やきれ→やきり」らしい。したがって、今でも、「やぎり」ではなく、「やきり」がこの辺りの方(かた)の謂い方だともある。(「ふれあいGASパーク/ふれあい交差点/地名町名の由来/6・中世豪族と地名/松戸編(中)京葉ガスHPより)
タバコ屋の“やきり”屋さん]まったく知らないけれど。
やきり放課後児童クラブ]もちろん、知らないけれども、やはり、やきり、である。(松戸市放課後児童クラブ運営費補助金交付要綱より)
 栗山の配水塔は谷の上手にあって、少し高くなっている。とはいえ、松戸市自体が坦とした「なり」をしているから、お世辞にも高いとは言えないないのであるが、坦(たい)らかであるがゆえに、周りから望めば山に見えるのである。そこへ、配水塔が立った(建った)。1937(昭和12)年のことである。高さ31.9メートルだから、21世紀の森(同市の最高地点)と遜色がなく、また、周りが低く、そこ(栗山)だけが高いから、以前は、その容姿がはっきりと、遠目からも眺めることができたのであろう。只今は、その頭だけが、「にょこ(き)」と矢切駅付近から拝めるだけなのかもしれない。

参考1;[矢切の由来(謂われ)](Ena(イーナ)/国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所より)
参考2;[「栗山配水塔」が土木学会選奨土木遺産に認定されました。](千葉県水道局のサイトより)
参考3;これも[栗山浄水場の配水塔](「ウェブ版千葉県の産業・交通遺跡へようこそ」より)

 土木学会選奨土木遺産は栗山の配水塔とほぼ同時期にできた「千葉高架水槽」(旧千葉県都川給水塔)を03年度に認定している。こちらは千葉市中央区矢作町670(誉田給水場千葉分場内)にあって、千葉東金道路京葉道路とぶつかる辺りを西に少し寄った場所にある。は、栗山のとは若干異なってみえるが、「様(さま)」は似ている。矢作(やはぎ)町は縄文来の遺跡(矢作貝塚)があるという。いわれは、矢を作っていた場所ということらしく、現在でいう水塔付近である。愛知県のほぼ中央を流れる川を矢作川という。その由来もやはり、矢を作る民が住んでいたという説がある。[矢作川の名前の由来](国土交通省中部地方整備局豊橋河川事務所)
 矢作は、矢矧とも記して、「矧」には「竹に鳥の羽をはめ込んで、矢を作る」と漢和辞典にある。「空撮 矢作貝塚・矢作砦 (1974年)」というページが千葉市の遺跡を歩く会のサイトにあって、おおよその位置関係が分かる。そこに「竹山」という地名らしき文字もあり、ソコラで採取した竹を細工して、弁天様の杜に巣くっているワシやタカが落とした羽根でも拾い集めて、矧(は)いでいたのであろうか。
 今、矢切付近では外環道路の工事が進んでいて、谷ばかりか、土地ごと、ものすごい、勢いで切られており、滑走路並みの威容(異様)を、バスから眺めて、少し、戸惑った。
守れ!矢切](松戸市矢切・小山地区外環道路問題対策協議会)
外環道の計画](国土交通省関東地方整備局首都国道事務所)※しかし、国交省には一体、いくつの事務所があるのだろうか(

 坦蕩(たんとう)という言葉がある。日頃から、その筋(蕩)には流されないよう気を留めているけれども、たんとう、は、そうでもない。
 「やきり」のお湯に浸かっていると、そういう感じ(漢字)を想い出した。そこに住んでいない、身勝手な遊蕩気分でしかない。