琉球留記・附留?〜青山霊園にて(琉球処分官と謂われる松田道之)

 玉陵(たまうどぅん)を実際、訪ねてみて、「琉球処分」ということを強く感じさせられた。それは、管理事務所地階にある展示室で、第二尚氏王統最後の尚泰(しょう・たい)王あるいは只今の時点では最後の被葬者となっている尚典夫人(現在でいう皇太子妃)などの名をみたからであるが、誤解を受けるかもしれないけれども、わたくしの中では、処分一切が、ここにあると、感じただけのことであり、歴史(大・大和)が琉球を封じ込めた、そういうような感傷を抱いただけのことである。その琉球処分については、もう、わたくしが書くこともないが、さっと、ふれておくと、1871(明治4)年に廃藩置県が始まるが、1年遅れて、琉球王国琉球「藩」とされる。鹿児島藩の附庸国という支配が大・大和へと替わった瞬間であり、廃藩の時期に藩を置くという乱暴そのものであった。79(明治12)年には沖縄県と変えられ、これをもって、琉球処分といわれることが多い。ただし、その年(時点)をもって処分というものではなく、一連の流れを、あるいは、その前後の琉球の状態を包括してみることで、「処分」という意味がより強く、かつ重く響いてくるのであろう。広くあらわせば、1609年(鹿児島藩の侵攻)を第一の処分としても、なんら差し支えもない。
 琉球処分(藩⇒県)において、重要な役割を担ったといわれるのが、「琉球処分官」松田道之(まつだ みちゆき、あえて敬称略とする)である。鳥取藩士の次男として生まれた道之は、松田家に養子に入り、京都で尊皇攘夷運動に参画、1868(明治元)年、京都裁判所(のち京都府)に務めたのち、71(明治4)年に大津県令(筆註;現在の知事に当たるが、当時は選挙でなく、任命制であった)に就任している。(大津の歴史事典大津市歴史博物館)大津(滋賀)での評判はすこぶる良い。すべてを当ったわけではないけれども、琉球処分との関わりについてはふれられていない文章が多く、むしろ、先駆的な県令としての活動・成果を紹介する文字が躍っている。同じように、処分官としての実績でもって、東京府知事に任命された(処分と同じ79年)あとの評価もおおむね高い。ただ、手許にある「東京の都市計画百年」(東京都都市計画局/1989年発行)では、道之について、以下のように記述している。
 《・・・、明治12年(1879年)にと東京府知事となった松田道之は、翌13年に東京の改造方針を述べた「東京中央市区画定之問題」を発表。新聞広告で広く意見を求めた。
 松田は、改良事業を「中央市区」に限定し、都心に豪商を集めるとともに、道路整備、築港を柱とする東京に未来像を示し、中でも東京を国際港にしようと、大胆な築港甲、乙2案を示した。この築港案は、明治を代表する自由主義経済主義思想家、田口卯吉の「東京論」の主張が、企業家の渋沢栄一を通じて、松田に伝わったものとされている。・・・》
 道之は年に若くして歿する(1839〜1882)ため、結局、上記の案は実現にはいたらなかったが、それは、道之の死によって、中断されたというよりも、道之の背後にあった渋沢、それを否とする政府、また、岩崎弥太郎の存在もあったことのほうが理由としては大きいようである。道之は中心には、い(居)なく、常に、脇、伝達吏、つまりは、お役人という印象が、わたくしの中で、たいへん強くなっている。当然ながら、上記、大津県および東京府などで得ている評価に揺らぎを感じている。
 もちろん、琉球側には厳しく書かれている。一例として、我部政男氏へのインタビュー「日本近代史料情報機関設立の具体化に関する研究」(近代日本史料研究会)を紹介しておく。また、記憶が曖昧であるが、「マツダの豚※凹・・・」という表現があって、もとは、異なる言い回し、使い方であったけれども、のちに、松田道之をそうあらわしたという文章もドコカでみた。そのことに、何の異論もない。むしろ、琉球の、松田の扱い、あるいは憾みが強くうかがえ、分かりやすい。ただ、第三者という、わたくしには、松田個人への思いを測りかねる面が多過ぎた。第一に、わたくしがそれほど勉強していないことがあるが、二つめに、松田は単に処分官ではないかという気もちが、どうしても引っかかってくる。以下は、大津県令時代の道之の令である。「滋賀県議会100年・琵琶湖への取組み」という滋賀県議会世界湖沼会議議員セッション実行委員会委員長・宇野治氏による基調講演の一部であると思う。そこに、琵琶湖疏水建設に対する松田の所見が載っている。少し、長いが、引用すると、
[松田県令の県冶所見(明治7年)]
《あるいは、瀬田川下流のど首に河口を開き、淀川水路を通し、あるいは尾花川より小関越に向かって掘って、京都に船を通す等の議論が入り乱れている。皆様の議論はより良き方策を求めてそれを行い、かつ理にもかなっているが、その利害得失に至っては、いまだ知識者の議論決定は聞かれない。お雇い外国人に測量をしてもらったといっても、まだその確かな見解を定めていない。まして、道においては、まだその得失事情を知らない。ゆえに、これを後日の論議に譲る。》とある。
 いかにも慎重な性格がうかがえると言ってしまえば、それで済むことであるが、よくよく読むと、いかにも、官吏らしい、結論なしの文章であると、咀嚼できる。前記、東京府知事時代の一件も、道之の考えではないと書かれている。そういうことを、あれこれ、穿(ほじく)っていると、道之という人は、どうも、ウフヤマト(大・大和)側が褒めるような、また、気もちはおおいに分かるけれども、琉球側の誹(そし)るべきような人物ではなかったのかもしれない。そういう想いがあって、今、道之に会うことはできないのは当然であるが、どうしても、会っておきたかった。9月1日に新美術館に出かけた(拙ブロ「ロッポンギ“ROP〜PONGI”」07年9月5日付)。道を挟んだ向こうには青山霊園があるが、14日に所用の隙間を縫って、そこを、訪れた。そこに松田道之の墓がある。琉球処分を考えているうちに、どうしても、この眼で確かめておきたかった。本来ならば、他所様のお墓をのぞくなどということはいけないことであるが、もう玉陵も見ている。むしろ、行かないと、軽々に書けないとも思った次第である。管理事務所で場所をお聞きし、案内図をいただいて、印をつけ、めざした。中央の通りに面しており、すぐ、見つけることができると思ったけれども、わたくしの方向音痴のせいと、存外、小さなお墓であったことが、見つけるまでに手間どった。墓の大小でもって、そこに眠る人の「生前の容・質」を測ることはできないけれども、小さいということで、なんだかホッとするというか、近しい想いが生まれることもある。松田家のお墓は、そういう雰囲気の部類にあった。お断りをし、墓標を見させていただいたが、風化がひどく、判読がしづらい、お墓の隣に、新しい墓銘碑(誌)が建てられており、そこには、おそらく、道之の子孫と思われる三人の方のお名が彫られていた。松田▲※平成6年72歳が最期である。子孫はそこで途絶えたのだろうか、前出の我部氏インタビューにはそのようなニュアンスのことが書かれているけれども、仔細は分からない。ただ、すっかりと枯れてしまった供花が物淋しく、久しく、参る人もいないような様子である。やはりというか、松田は、お墓から判断する限り(するべきではないが)、ひとりの官吏にしかすぎない、という思いをさらに強くもつことになった。ただし、我部氏の仰言られている、碑は、やはり、異様である。松田個人はどう思っていたかを測り知ることはできないけれども、周りの者の松田への想いがうかがいしれる。「故東京府知事松田道之君伝」(上田仙吉編城重源次郎編)というのがあって、いずれも国立国会図書館近代デジタルライブラリーに所蔵されているが、読むと、松田に対して、周りがどう思っていたかが分かる。
[やはり、異様な碑である・・・下方にずっと続いている]
松田碑画像0006

 引き続き、滋賀県の資料を眺めると、松田も学んだという豊後国大分県)日田に「咸宜園(かんぎえん)」という私塾があり、塾生の中に高野長英(いなかったという説もある)、大村益次郎などの名もみられる。廣瀬淡窓(ひろせ たんそう)という儒学者が拓いたそうであるが、その廣瀬が「万善簿」を提唱した。「幕末・維新の町を行く」というサイトから『第5回大分県日田市「広瀬淡窓と咸宜園」』の部分を引用させていただく。
《淡窓は、生涯を通じて、この「善」という言葉に非常にこだわっています。
淡窓は『万善簿』という、一日が終わった段階で、その日行った「善行」と「悪行」を帳面に記載する記録を付けています。その日一日に行なった善行(善い事)と悪行(悪い事)を帳面に毎日記載し、月末になると、その帳面につけた「善行の数」から「悪行の数」を差し引いて、月ごとにいくつ善行を行ったかを集計しました。『万善簿』とは、この悪行を差し引いた純粋な善行の数が一万になるのを目指して行なった淡窓独自の業のことであり、淡窓はこのような業を行なうことによって、常に己の生活を戒めることを忘れなかったのです。》
 廣瀬に学んだ松田も当然ながら、万善簿を励行し、大津(滋賀)県において、また、東京府において、善簿を重ねてきたのであろう、そして、おそらく、万善簿を達成したのかもしれない。それゆえ、周りに評され、短命ではあったけれども、一官吏(伝達吏)として全うしたのであろう。
 ただし、万善に価する●イッコ(=琉球処分官)という簿は永遠に消えないのである。
「順徳院殿三十一海居士」
 松田の戒名である。ざっと、数えると、世界には三十ほどの海(大洋)があるけれども、わたくしの中では、それには、結びつかない。
(了)

 琉球留記は、とりあえず、おしまいとし、預け物を受け取りに、琉球へ、明朝、向かう。