琉球留記・附留?〜興津・清見寺(おきつ・せいけんじ)

 標題の清見寺(せいけんじ)を見て、はっ、ほぉ、あれ〜などと思われた方(かた)は、多少なりとも鉄分(てっちゃん度)があるのではなかろうか。わたくしも、その前を何度か通り過ぎたことがあるが、今回、初めて、訪ねた。例によって、所用の帰り、藤枝文学館(9月29日開館藤枝市サイトより)はまだなので、こちらに足を延ばした。興津駅を降りて、清水側に戻る、予想外に暑い日(9・27)であったので、国道を避け、家並(南側)と線路(北側)の間にある狭隘な路に入り、日陰を探しながら10分ほど歩いていくと、いつのまにか、路は境内となって、当然ながら、鉄路もお寺の中に、そういう状況が鉄分たっぷりということである。こういうのは、鉄分の足りない、わたくしには、あまり経験がない。青森の三沢市というところに古牧(こまき)温泉というのがあって、そこへ行くと、東北本線が敷地内を通っていて、ご丁寧にも、民鉄である十和田観光電鉄も逆(西)側を走っている。ただし、清見寺にも古牧温泉にも駅はない(あると面白いけれども)。
[踏切の右も左も清見寺]
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清見寺の境内を走る東海道線・電車の向こうもお寺さん]
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 今回は、鉄分補給のために来たわけではない、第一、わたくしには鉄分よりマグネシウム(足の攣りに有効なので)の方が重要である。清見寺へうかがったのには別の目的があった。境内に入り、本堂をみると、玄関先に「見学を希望される方は、鐘を鳴らしてください云々」とあった。面白そうなので、堂内にお邪魔すると、鐘が鎮座していた。脇にある木槌でもって小突くと、カ〜ンという響きに反応して、奥のほうからハ〜イと声が、ご住職だろうか、と、私、行きますと、別の声がして、奥方が出ていらした。
 「あのう〜、琉球王子のお墓を・・・」と申し訳なさそうに言うと、ご丁寧に教えてくださり、いったん、境内を出て、というか、線路づたいに北側に通じる道があって、途中から跨線橋になっており、さらに上っていくと、小山を開いた中に墓群がみえてくる。少し脱線するが、この付近は海と山が「接するほど」近づいており、平坦な部分がたいへん少ない地形となっている。したがって、その狭く、長細い土地に家も畑も道路も鉄路も、すべてがひしめきあっている。今はどうか知らないけれども、新幹線および東名道ができて数年あるいは10年ぐらいは社会の教科書に必ずといってよいほど、この辺り(由比付近?)の写真が載っていて、新幹線、東海道線、国道1号線(東海道)、そして東名高速道路が海と山に挟まれた中で併走していた、という(あてにならない)記憶がある。
 話を戻す。
 1609(慶長14)年に琉球鹿児島藩の手に落ち、第7代尚寧王は薩摩に連行され、そののち、京、駿府(家康と会う)、そして、江戸において将軍秀忠と謁見する。その際、佐敷王子朝昌(のちの8代王、尚豊)とともに江戸に向かった一人が寧王の弟尚宏(しょう・こう、大・具志頭王子朝盛)である。尚宏は薩摩に連行され、いったん、琉球に戻るが、謁見のために再び寧王らと合流する。兄の補佐役、また、その兄に万が一があった場合のお世継ぎという立場、そうした心労・疲労もあったのであろう、駿府で病床に伏し、兄たちを見送るが、1610(慶長15)年8月21日、薨御、清見寺に埋葬云々・・・と、「喜安日記」(沖縄の歴史情報 第9巻/筑波大学所蔵琉球関係資料 収録資料一覧)にある。小高い山のなお一層高所のほぼ中央に尚宏のお墓がある。丁寧な説明を受けたのにもかかわらず(わたくしの)方向音痴はここでも同じで、ずいぶんと探したけれども、ようやく、対面できた。天辺に球形の墓石を頂き、供花がまだ瑞々しく、最近、訪ねられた方がいらっしゃることが想像でき、また、お墓の中台には白化したあとの珊瑚の骸が数片、丁寧に置かれていて、想像がより膨らんでいく。脇に建てられた案内識には、尚宏の死後、江戸上りする琉球からの遣いが必ず立ち寄った(筆註:ある種の諭祭;ゆさいともいえる、沖縄県;Wonder沖縄より)とある。今も、そのような諭祭の方(かた)が居られるのであろう。しばらく、留まっていた。お彼岸も過ぎており、墓地の拡張工事なのであろうか、その関係者以外、誰もいない、もちろん、自分が、ここにいる理由はまったくないけれども、ことの成り行きとでもいうのであろうか、ここへ来ることで留記を終えることができると思った。
 ここ(お墓)から、1万4000キロ彼方に琉球が望める、そういう風にも思ったのであろうか、あいにく、それから、400年経っており、樹木が欝蒼としていて、只今は望めないが、電子地図でもって検めると、真っ直ぐに、視線を見すえた先に、確かに琉球をみることができる気分であり、実際、お墓を去る際、立ち止まって、樹間から、垣間見た向こうに琉球を見た思いである。
[尚宏のお墓のやや下方から琉球をみる:斎場御獄(セイファウタキ)ではありません]
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 求玉院殿大洋尚公大居士

 尚宏のお墓に刻まれた名である。玉とは琉球および民の平和と、勝手に解釈した。それを尚公(尚宏)は大海のごとく広い気持ちでもって望んでいたのだろうか。