琉球留記?寧がもたらした濘

 1609年、鹿児島(島津)藩は琉球王国支配下に治めた(薩摩の琉球侵攻)。時代は江戸期に入っていたが、豊臣秀吉の時代にはすでに、独立国「琉球王国」への介入あるいはその意思があったのであろう。そればかりか、秀吉は朝鮮に侵攻するという愚行にも出ている(文禄・慶長の役)。関が原で、西側についた鹿児島藩は赦されたものの、財政的負担を強いられ、上記、琉球侵攻に藩の存亡がかかっていた。それゆえ、幕府に許可を願い出て、家康(一応、将軍秀忠の認になる)も黙認している、ただし、その方が、自分(幕府)にとって、有利と考えたのであろう。島津に儲けさせて、上前を撥ね、いずれ、乗っ取ろうと、とでも思っていたと考えても、あまり、違和感はない。肝腎の明にも力はなかった(44年に滅びる)ので、たとえ、嘘でも、琉球王国が存続している限り、明・琉間の朝貢貿易として、益が出れば良かっただけのことかもしれない。ただし、東・南アジアの貿易は欧州列強(葡、西、蘭、英)も加わり、混沌としており、琉球にとっても必ずしも追い風というわけでもなかった。
 第二尚氏王統第7代尚寧王は、そういう時代の中に在った。今も、昔(当時)も評価は分かれよう。例えば、玉陵(たまうどぅん)に王は納められていないが、それは、オギヤカによる命を守ったといえば、それだけに過ぎないけれども、曾祖父の維衡は葬られている。もう、そういう時代でもなかったはずである。(オギヤカは寧王崩御の100年ほど前に斃れている)ただし、他人の目(評価)は二つあって、鹿児島藩に侵攻を許したから、「恥ずかしくて、入るのを憚った」という右目と、永く住んだ、浦添が自分の地(血=アイデンティティ)なので、「もともと、入る気はなかった」という左目である。わたくしはというと、左目を考えている。わたくしは、どうも、宣威(琉球留記?)といい、維衡(琉球留記?)といい、コッチ(左目)側に肩を入れ(持ち)すぎなのかもしれないけれども、やはり、そう思っている。島津の琉球侵攻については、もう、詳細は書かないが、わたくしには、解読不明である、当時の出来事を寧王の側近である喜安(きあん)が書いた「喜安日記」(伊波普猷文庫目録/琉球大学附属図書館)で知ることもできる。当時、大坂(泉州)・堺は自由都市として「世界」に知られる存在であったが、喜安もその自由の中に生き、1600年、琉球にわたった僧侶、茶人であった。時代はややずれるが、堺には千利休もいた。喜安については、よく分からない。「薩摩(島津)侵入の際には折衝にあたり、国王に随行し将軍にも謁見する」と沖縄コンパクト事典(琉球新報社編)にはある。寧王には仏・茶を通じて「やまと心」を教えたともいわれるが、この頃、先に記したように大和(正確には薩州をそう呼び、本土全体、幕府を大大和=ウフ・ヤマトとあらわした)は琉球に対して、さかんに密偵を送り込んでいたらしいから、さてはて、喜安はどうかということについては、今のところ、「?」である。喜安の伝えた茶心は、ぶくぶく茶として、今も残り、その派生としてだろうか、ぶくぶく珈琲というのもある。
 時を重ねるように、岩城の国生まれの浄土宗僧侶「袋中(たいちゅう)上人」が明への留学渡航を企てるが、上陸を拒否されて、琉球に漂着したことから、寧王と出逢うとされている(1603年)。上人については、今回、初めて知った。浄土宗の公式サイトを開くと、法然上人とその弟子の僧らについて書かれているが、その中で袋中についてもふれられている。3年間、在琉して、念仏を広めており、那覇小禄には袋中寺(浄土宗サイトより)という所縁のお寺もある。儀間真常(ぎま・しんじょう)という人も熱心な信徒のひとりで、のちに、サツマイモ栽培の振興、木綿布の生産(琉球絣となる)、また、製糖技術の導入などに注力し、貿易以外の産業を琉球にもたらした。(惜しまれながら?)琉球を去った袋中は京に戻り、檀王法林寺(浄土宗サイトより)に落ち着く。
 寧王も深く帰依したとある(上記、「袋中」)。浄土宗の教えは『阿弥陀仏の平等のお慈悲(じひ)を信じ、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とみ名を称(とな)えて、人格を高め、社会のためにつくし、明るいやすらかな毎日を送り、往生(西方極楽浄土に生まれること)を願う信仰です。』と上記公式サイトにあり、いわゆる、他力本願である。ただし、自力(念仏)がなければ、他(本願)力はないという風に考えると、寧王がどれだけ念仏に熱心であったかどうかは、かなり身びいきである、わたくしも肩を入れあぐんでいる。二たび、100年前に戻ると、オギヤカ(尚円の夫人)は宣威(第2代王、尚円の弟)筋の排除を徹底しており、繰り返すが、宣威の孫、維衡を廃嫡させ、以降、オギヤカ直系の王位が続く。当然ながら維衡の曾孫である寧にとっては、即位はハプニングのような事象であったのではないかとも思う。本来ならば、尚永(第6代)の弟・大金武王子尚久であろう。うがってみれば、寧王即位(1589年)の事前には、すでに、侵攻の兆しがあり、それを察知していた「オギヤカ」筋が歴史的な辱めを回避したということも妄想できるが、そこまで、わたくしも、肩入れ(持ち)するつもりはない。ただし、尚久の子、尚豊(第8代)は即位前を佐敷王子朝昌といって、島津の侵攻後、寧王とともに鹿児島(薩摩)に渡り、江戸での将軍謁見もしている。その後、琉球に戻り、再び、国質(人質)として、薩摩に送られるが、この間、いえ、その前からなのかもしれないけれども、朝昌(尚豊)は島津による附庸「化」政策を受け容れているフシもある。
 以上も、以下も、もちろん、想像のことである。
 寧王は、期せずして、附庸に傾いていた琉球を牽引することになるが、心は、もう、そこになかったのかもしれない。もちろん、謝名親方(じゃな・うぇーかた)らの心・気概に動かされないはずはないが、その親方も含め、(島津の圧倒的な武力を前にして)琉球の地を血で染めるのが本願ではないはず、ならばと、せめて、上人に会おうという想いではなかったか、と。寧王は袋中上人とふれあい、上人を通して、ウフ・ヤマト(本土)のこと、京のことなどを聞いていた。もちろん、他の、例えば、喜安などからも得ていただろうが、「上人の」は本物である、そういう風にでも思っていたのであろうか、2ヵ月半にもわたる、薩摩、駿府、江戸という人質としての送還も苦であろうし、辱(はじ)かもしれないけれども、それによって、琉球が残るなら、そして、上人と逢えるのなら、「それで、良いか」とでも考えたのであろうというのが、わたくしの勝手な想いである。ただし、京で上人に再会したということは、確認できていない。「喜安日記」(こちらは沖縄の歴史情報 第9巻/筑波大学所蔵琉球関係資料 収録資料一覧)には、京見物を固辞し、陸奥守(島津家久)の屋敷で歌舞伎を観たとある。あるいは、その場を、上人が訪ねたのであろうか。
 濘は、ぬかるみである。それは、寧王の断による、その後の琉球、そして、只今の沖縄をあらわしているのかもしれない。それ(濘)を、寧が流した涙と書けば、あなた、それは、肩入れ(肩を持つ)ではなく、間違いですと、言われるであろう。
 浄土宗には空也上人が創めたという踊念仏という、只今における盆踊りの原形がある。琉球のお盆に各地で繰り広げられるエイサーもまた、袋中上人による置き土産(踊念仏から生まれた)であるという。
 わたくしは、まだ、その場にいたことがない。
 以上の想像については、近々、訪ねることでもって、改めて、考えてきたいと思う。