勢理容

 那覇滞在中に髪を刈った(7月9日)。一般の理容店で、900円というのがあって、以前(2年前)、なんとなく、その前を通って、価格のことは憶えていなかったけれども、お店のことは記憶していた。崇元寺(そうげんじ)といって、那覇の西側がまだ海だったころに、この辺りから浮島(現在の若狭・松山・久米辺り)に橋梁が架かっていて、長虹堤(ちょうこうてい)という。冊封使(明・清代の中国皇帝が派遣した勅使)は、いったん浮島に上陸して、橋を渡って、まず、このお寺で先王の論祭(弔いの儀式)を行ない、のちに、首里城へ上がったといわれる。創建は尚巴志王代、尚円王代、尚真王代とはっきりしないが、残されている「下馬碑」は尚清王即位(1527年)の時に建てられたものである。(拙ブロ;琉球留記?マチヤグヮーとマチグヮー;07年8月25日付)補足すると、沖縄コンパクト事典(琉球新報社編)には以下のようにある。
 《尚金福王(筆註;第一尚氏第5代)が即位とともに、柵封使の来琉に備え、国相懐機に命じて築造(1452年)させた海中道路那覇はかつて離れ島で(那覇浮島)と呼ばれ、首里との往来に不便をかこっていた。これにより那覇浮島と首里は陸路で結ばれた》
 以上の長虹堤と重なるように(わたくしの勝手な想いがあるけれども)、沖縄戦前には県営の軽便鉄道も走っていて、崇元寺付近にも繁華な様子が想像できる。国土地理院沖縄支所のサイトにケイビンの路線図が紹介されている。現在でいえば、御物城跡の向かいにある通堂(とんどう)駅から首里(只今の首里高校付近)まで延びている。現在はどちらかというと人通りの少ない寂れた印象が強いが、この崇元寺通りを市外線バスで出かける際はたいてい通っていて、車窓を見ながら、耳はバス停を告げるアナウンスに傾けている。泊高橋を経て、国道58号線に出る。目の前には渡嘉敷島などへ向かう離島船乗り場「とまりん(泊埠頭)」がでんとある。右折して、やがて、安謝(あじゃ)川を隔てて、浦添市内に入り、左手(海側)にキャンプキンザーが拡がる。この一帯を牧港(まきみなと)といって、宜野湾市にいたる路面にはさまざまなお店が賑やかに並び、ついつい途中下車したくもなる(したことはないけれども)。少し戻るが、安謝川に架かる橋付近のバス停(安謝)を出ると、「※●凸」という次停の案内が聞こえてくるが、よく分からない。いつも、分からないので、バス停に着くと、名前を確認している。それが標題の「勢理容」である。今回も7日(7月)に勝連城(グスク)を訪ねた際、利用した折にも通った。わたくしは、もともと目が良くないほうであるから、ずっと、そのように読んでいた。実は、その日も往き帰りにそのバス停を確認し、行くほど伸びていたわけでもなかったけれども、散髪に行こうと思った。バス停の名前になるほどであるから、その理容店はかなり大きい、あるいは有名なお店なのだろうか。商売的にも「勢い」のある理容店とばかり思っていた。ただし、※●凸はイキオイリヨウテンではなく、「ジッチャク」とコールされている。日本歴史地名体系というサイトがあって、そこに、勢理容に関する記述がある。狩俣繁久(かりまた・しげひさ)さんが書かれている。もともとは、『沖縄県の地名』という著作があるそうで、その補遺のようなページであるが、そこにある。《「事典」には書けなかった「歴史地名」もうひとつの読み方/第6回 琉球語と地名研究の可能性》をみると、勢理容ではなく、勢理「客」であった。勢理客は浦添だけでなく、金丸(尚円)の生地、伊是名島にもある。今帰仁にもあり、上記、狩俣さんの資料によれば、与論島沖永良部島にもあるらしい。このことは、もう少し、妄想してみたい。
 その崇元寺を訪ねてから、散髪に行った。それから、ふた月ほど経っている、そろそろ、勢理容に行こうかなぁとも思う。