うっかりスエット

 相変わらず、部屋においてはウイスキーの水割りを呑んでいるけれども、“割り方”を間違えてしまった。うっかりとしていて、冷蔵庫のラックに並んでいたミネラルウォーターと■凹※スエットを取り違えた。第一、容器の大きさが異なっているので、間違える方がおかしいのであるが、気づいたのは、すでに、注いだあとであるので、仕方がない。呑んでみた。スエットの甘さもあってか、全体的にはジンジャーエールの味に近いが、無理をすれば、フルーティーながら辛さも後舌に感じられる白ワインのようでもある、ただし、無理強いすれば、である。二たび、試そうとは思わないけれども、うっかり間違えてしまおうかという気もちは少しだけある。スエットは、20日に東海道のある宿場街をホッツいた挙句、軽い熱中症に襲われた際に求めた残りである。
[うっかり、ウイスキー+スエット]
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 そのことについて、書きたいと思う。
 所用の翌日、藤枝市に寄った。目的は別にあったのであるが、(藤枝駅から)そこへ向かう際に、バスの窓外に街道が開けたのをみて、帰りに歩いてみようと思った。バス停にして、ふたつかみっつ、徒歩可能な距離と値踏みした。(そもそも、これが間違い=思いあがりであるが)乗ったバスは駅より北上し、途中、志太(しだ)温泉方面は「お乗換え」という案内に、降りようかという思いをなんとかとどめながら、すでに幹線道路(国道1号)を離れ、旧東海道を走っていたらしい。帰り途を南の川付近まで歩いてみた。瀬戸川といって、その、さらに南を荒粗(あらあら)と流れる大井川ほど有名ではないけれども、江戸期には橋もなく、ここにも川越(かわごし)の商いがあったと、のちほど訪れた同市郷土博物館で知る。ただし、水量が少なかったことから、勝手に徒歩で渡る旅人が少なくなかったので、生業としては、あまり芳しくなかった、とも、「東海道五十三次藤枝宿」という藤枝市(および同観光協会、同郷土博物館の共同制作)の冊子にある。電子地図で確かめると、大井川の幅(大井川橋付近で約1キロ)に比して、100メートル(勝草橋付近)であるので、渡れると、当時の人も踏んだのであろう。その当時のことは分からないけれども、実際に歩いてみると、宿場から、宿外(瀬戸川方向)に向かって、わずかに上がっていく感覚がある。天井川かと思い、後で調べると、やはり、そのようで、そのこと自体、要塞(関)を担っていたのかとあてずっぽう思いしながら、西木戸門跡地付近を確認すると、より昇っていく坂を避けて、戻った。⇒瀬戸川と天井川について〜島田土木事務所のサイト〜
 バスからみた付近を現在は上伝馬商店街(通り)という。悪く表わせばシャッター通りである。往時の活気はない、むしろ、往時は活気があったという想いだけでもって、とぼとぼと歩いていたが、旅籠風のお店や宿そのものも数軒あって、駅前と較べると、趣きはある。確かに事情もあった。ここにも鉄道を避けたという歴史がある。拙ブロ「火の国、通りすがりの記?(春日駅⇒熊本駅)」(06年2月27日付)で書いたけれども、お城(街の中心)と駅(鉄道)というのは相反する想いがあって、往時は、駅を街(お城)から遠くに設けるという事例がいくつかあった。藤枝の場合もそうで、両間の距離は2.5キロほどである。ただし、これは駅(宿場)と駅(鉄道)のことであり、お城は、さらに間遠にある。お城(田中城)については、やや特殊な事情をもっている。そのことは、また、近いうちに、書くことができれば、と思う。藤枝宿は東木戸から西木戸まで約2キロと長く、上記の「藤枝宿」冊子によれば、1843(天保14)年頃、千軒以上の家屋があり、人口はその4倍ほど、大小あわせて47の旅籠があったとある。面白いのは、宿場の要所である「問屋場(といやば)」が東西二ヶ所(前に書いた西・東木戸脇に、それぞれ、上伝馬[西]、下伝馬[東]が設けられていた)あって、それぞれ、上伝馬は下り荷(江戸方面行き)、下伝馬は上り荷(京都方面行き)を担っていたということである。只今でいえば、当たり前である鉄道の上り下りという発想がすでに存在していたということになる。ちなみに下伝馬は混雑する上伝馬を補完するためにのちに設置されたともある。問屋場というのも厳しい印象があるけれども、そうでもないらしい。国土交通省関東地方整備局横浜国道事務所のサイトに、問屋場の解説があったので、引用させていただく。
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 問屋場は宿場でもっとも重要な施設です。問屋場には大きく2つの仕事がありました。一つは人馬の継立業務で、幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際に、必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶというものです。もう一つが幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務で、継飛脚(つぎびきゃく)といいます。これらの業務を円滑に運営するために、問屋場には宿場の最高責任者である問屋(といや)、問屋の補佐役である年寄(としより)、事務担当の帳付(ちょうづけ)が詰めていました。またその下に、人馬指(じんばさし)とか馬指(うまさし)といった、人足や馬を指図する役職を置いていた宿場もありました。この他にも、参勤交代の大名行列などを宿場の出入り口で出迎えるための迎役(むかえやく)といった役職を設けていた宿場もあります。問屋場は一つの宿場に一カ所だけとは限らず、一つの宿場に複数の問屋場があった宿場もあります。このような宿場では、交替で業務を担当していました。
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 このあと、さらに、当時の図があり、脚注として、《武士の供が問屋場の役人に書類を提出し、宿役人が証文と思われる文書を確認している。外では人足たちが前の宿場から運ばれてきた荷物を新しい馬に積み替えている。》とある。《「問屋場」(といやば)とはどういう施設ですか?》より
 図を見る限りでは、役人は、文書を問屋場の屋内でもって、座したまま、確認(単に眺めている)しており、ことさら、屋外の人馬周辺への気配りは行なっていないようにも思える。まぁ、相手が武士という条件付きだとしても、その光景は、ほとんど社会保険庁状態であるというのか、変わっていないというのか、お役所仕事の一端として、ほのぼのと描かれている。
 わたくしが思っていた厳しさというのは、おそらく、関所との混同(勘違い、間違い)であり、問屋場あるいは宿場とは違っている。前者を国境とすれば、後者はその脇にあるデューティ・フリーのようなものであろうか。話が逸れた、わたくしも、(旧)宿場街にある時期住んでいて、近くに伝馬という地名を知っていて、道に迷うことを楽しみながら、歩いていたこともある。生来の方向音痴に加えて、その街筋は込み入っていたので、家に戻ることが度々遅れた。(と、親には言い訳していた)
 次回はハスについて、少し、書きたい。