夜の市(両国の花火)

 日曜日(20日)、両国にある東京江戸博物館に出かけた。思いのほか、混んでいて、あとで考えると、角力(大相撲夏場所)も開かれ、おまけに、向こう岸(ちょっと北側だけれど)では三社祭もあって、この時期隅田川界隈は1年でも賑わっている頃なのであろうか。ペテルブルクについて想っているうちに、とりあえず、その雰囲気だけでも感じてみようと、開催されている「ロマノフ王朝と近代日本」展に出かけた次第である。ちなみに上野の山では国立ロシア美術館展が催されていて、こちらは行っていないが、おそらく、「賑」なのであろう。余談であるが、アイヴァゾフスキーという画家の作品も何点か出ていて、今展には来ていないものの、彼の代表作である「(第九の)怒涛」をだいぶ前にみた記憶がある。いろいろ巡ってみると、77年に日本橋三越百貨店で開催された展覧会のようである。わたくしは、やはり、チンピラなのであろうか、ペテルブルクにまで行っておきながら、エルミタージュもロシア美術館にも寄らず、他所様からみれば、どうでも良い処にしか立ち止まっていない。ま、そのことは、後日、自慢話も含めて、書きたいと思う。
 平井の最勝寺に出かけた際、本所吾妻橋に戻り、元あったという場所を訪ねたけれども(拙ブロ「三郎」07年5月15日付)、わたくしの勉強不足は相当なもので、のちに、最勝稲荷があると、あるサイト(おたまじゃくし)で知った。平井の境内にも仁王門近くに稲荷があって、その分社でもあるのかという軽い気もちでもって、他の考えもあり、隅田川沿いを北に進んだ。意識して、川畔と道路を避け、家並をさ迷っていたので、傍からみると、不審者そのものである。咎められた際の言い訳は用意しておいた。江戸安政期の古地図墨田区サイト)と現在地図のコピーである。博物館脇を川に向かって、次いで右に折れる(北進)と、すぐに旧安田庭園がある。両国公会堂はすでに老朽化ということで定年退職を迎えられ、今はひっそりと、その優雅な姿がまるで身体を休めているように座している。
[両国公会堂]1926(大正15)年生まれ。
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芥川龍之介氏の『本所両国』(青空文庫)には《本所会館》とある。
 古地図によれば、この辺りは幕府の御竹蔵とあり、米ならびに竹を貯蔵していた場所らしい。さらに進むと、只今は、蔵前橋〜厩橋があり、二たび古地図に目を戻すと、向井将監(むかい しょうげん)という名が飛び込んでくる。しかし、本日は我慢して、先を急ぐ。ただ、東駒形一丁目に船江神社というのが(現代の)地図上にあって、立ち寄り、縁起書を覘くと、「・・・、海運(水運)の安全を祈願するために、将監も詣でた」とあり、向井一族(将監は代々継がれた官職名のようなものらしい)とこの辺り(隅田川界隈)との関係の深さを垣間見ることができた。そこから、車道を渡ると駒形も二丁目となり、目標となる本行寺をぐるりと回りつつ、本命の「お稲荷様」を探してみたけれども、分からない。民家と民家の間に行き止まると思われる何本もの細い露地があるものの、迂闊には進入できない(不審者になる)。路傍の両側には鉢がきれいに置いてあったりして、五月の風に誘われて、蕾がもう待ちきれないでいる。いかにも、下町の光景である。表通りに、やはり、玄関先を鉢で埋めつくしているお宅があって、そこの主らしい女性がいらしたので、声をかけてみた。失礼ながら、80歳をとうに越えた方と察した。最勝寺が平井に移ったのは1913(大正2)年らしいから、当時?は、まさか、お生まれではないと思うけれども、親御さんからお聞きして、よくよく記憶しているのかもしれない。以下、彼女との会話。
「この辺りにオイナリさんはありませんか」
「あるけれど、どういうオイナリさんで」
「はぁ(..)、サイショウ・・・」
「だから、サイショウイナリのどういうコトに要件があるんかね」
「はぁ(-_-;)」
(彼女、無言で、わたくしを睨んでいる)
「・・・、平井のですね、最勝寺さんから、聞いて、いえ、知って、うにゃむにゃ、・・・見たいんです」
「あぁ、その横曲がったところだよ。(平井の)住職さんが置いていって下さってね、この辺りの皆で守っているんだよ」と、首を彼女のご自宅を基点にくるりと一周させた。おそらく、その一角の皆さんが大切にしてきたのであろう。お礼を言って、見させていただいた。住宅街(一方はマンション)に囲まれた狭い路地の一角に、きれいに鎮座していた。「皆に守られて」いることがよく分かる。すぐに、引き返し、女性に再度、お礼を言って、お暇した。最後に、「あいよ」という風に首を傾げて、(満足したかい)というような面持ちでもって、かすかに微笑んでいただいた。(と、勝手に思っている)
 ただし、わたくしの江戸弁はまるっきり、なっていないので、上記会話は不自然な表現である。ここは、志ん生師匠に登場願おうかとも思う。この拙ブログを書くにあたり、前記、古地図とともに、司馬遼太郎氏の『街道をゆく・深川本所散歩』を照らしている。同著の中で、司馬氏は幼少の頃から落語が好きだったと書かれている。文中に円朝師匠の落語を引用されていて、『江戸っ子』という段に「文七元結(もつとい)」という噺にふれられている。吾妻橋から飛び降りようとする日本橋の奉公人、文七を助けた達磨横丁の左官(しゃかん)長兵衛のもとにあくる日、主人ともども訪ねてきて、失くしたと思った50両は水戸の屋敷に忘れただけのこと、というので返しに来た。もともと50両は行方知らずの(長兵衛の)娘が身売りでこしらえた金だけれども、長兵衛は要らねえやと突っ返す、司馬氏は、これが江戸っ子の典型だと謂う。
 水戸の屋敷とはリバーピア吾妻橋とは北十間川で隔てた現在の墨田公園、古地図には「水戸殿」とある。長兵衛の住む達磨横丁は今の東駒形一丁目付近、わたくしが先ほど通ってきた船江神社あるいは向井将監屋敷辺りである。手許にある『志ん生の噺3 志ん生人情ばなし』(小島貞二氏・編、ちくま文庫)によると、文七らは日本橋から浅草観音を詣でてから、吾妻橋を渡って・・・とある。そこから、少し下った場所に長兵衛は住んでいた。「すみだの文化財マップ」(墨田区教育委員会)にも達磨横丁跡という記載がみられる。当時はコマカタ(駒形)橋がまだなく、江戸(武蔵国)と下総国を行き来するには両国橋か吾妻橋であったのであろう。また、おそらく、身投げするには吾妻橋の方がしやすかったのかもしれない。(司馬氏は、佐藤光房氏の『東京落語地図』を引用されていて、吾妻橋というのはどういうわけだか身投げが似合っていて、と、書かれている)両国橋は江戸と本所・深川を結ぶ要衝として人の往き来も多く、繁華な場所であったので、投げづらいという事情もあった、というのは(わたくしの)想像でしかない。今は、隅田川花火大会となって、これもまた大変な人出となるが、両国花火といわれた時代も両国橋界隈は人であふれていたそうである。
 えー、花火というものは、江戸の年中行事でありまして、両国の川開きといって、そりゃァもう、大変なにぎわいだったそうですなナ。
 えー、享保のころに始まったんだそうで、五月の二十八日てえのが、その花火でございまして、・・・
 前出「志ん生の噺」の4「長屋ばなし」にある『たがや』の冒頭である。言い出しの「えー」が志ん生師匠独特で、そのあとに続く江戸弁が素的である。 わたくしも二つだけ、落語を知っていて、一つ目は『ちはやふる』であることは以前に書いた。(拙ブロ「本牧」06年4月13日付)同時に聴いていたのが「たがや」である。花火で賑わう両国橋に本所方面から馬に乗った殿様(旗本)一行がやってきて、通り道を開けさせようと、槍でもって、人を払うから、押されて、川へ落ちる者が出るなど大混乱しているところへ日本橋側から「たが屋」職人が歩いてきたものだから、はずみでもって背負っていた道具箱を落とし、拍子で、中から、結びのとれた箍(たが)が(元の真っ直ぐな状態へ戻ろうとする勢いで)伸び、張り拡がって、殿様の陣笠をはねてしまったから、大変である。屋敷へ来いから始まって、とうとう手討ちにされる羽目になった、たがや職人、
 にわとりも追いつめられて五尺とび(師匠の噺の中から)
 次々とお伴の者を切り捨てると、最後に殿様に向かっていく。以下、師匠の噺を引用すると、
 「おのれ、下郎ッ!」
 と、抜こうとしたところを、スーッと傍ィ寄って、馬のところへヒューッと、体をおしつけといて、サッーと払ったから、その勢いで、殿さまの首が宙へスポーン!
見物が、
「たがやァーッ」
で結ばれている。
 夜の市が本題であった。市(いち)とは、「多くの人が集まる場所」と辞書にある。「市をなす」は多くの人が寄り集まってくること、「門前、市をなす」ともある。これからの時節は両国もそうであるけれども、市中の集まりは次第に夜へと傾き、いわば夜遊びに適している。真夏の夜の花火はその〆くくりのような味わいもあって、各地で開かれ、大勢の人で賑わう。本日は長くなったので、次回、このことについて、書き留めたいと思う。
たが(箍)長崎大学附属図書館)