三郎

 最寄りのお店で出雲銘菓というのをみかけた。柚子菓子のようである。買い求めることはしなかったけれど、出雲のことにふれる想いを頂いた。もう、3年前になるのか、初めて、うかがった時に「雲太和ニ京三」(05年4月13日付)という拙いブログを書いた。調べてみると、2004年8月28日であった。まことに暑い日であったことを憶えている。上記、「雲太・・・」は建物の高さに序列を1から3番目まで示したもので、出雲大社本殿は当時32丈(約96メートル)あったともいわれており、だいだらぼっちや龍伯の巨人(「三山五山」拙ブロ07年5月10日付)ほどの威容を誇っていたという。平安時代の古書『口遊(くちずさみ)』にある一節で、雲太はもっとも高いであろう出雲本殿を一番(太郎、一郎)と賞すことを示している。二番目を二郎(次郎)、三番目を三郎と謂い、和二とは(大和の国)東大寺大仏殿、京三は京の都、大極殿八省をさしている。坂東太郎(利根川)、筑紫次郎筑後川)、四国三郎吉野川)は河の大きさ、「山太、近二、宇三」は橋梁の長さで、山=山崎橋、近=勢多橋(勢田の唐橋)、宇=宇治橋である。また、仏像の大きさを表わす「和太、河二、近三」は大和の東大寺、河内・知識(ちしゃく)寺、近江の関寺となる。以上のことは、お店でみかけた和菓子をもとに、また、出雲にうかがいたいなぁと、まだ、到っていない日御碕にもと、想いを馳せた次第のことである。
 さて、この数日は東福寺について馳せており、拙ブロ(「三山」07年5月5日付)の中でもって、同寺についてふれた。重なるけれども、二たび、書くと、社内にある庭に方丈南庭というのがあって、そこに五山八海(または九山八海)という見事な造作があり、ぼぉっとしている、わたくしは、そこまで行きながら、気を留めていなかったという話である。改めて、東福寺のサイトをのぞいてみると、九条道家が造営したとある。道家というのは藤原(中臣)鎌足以来続く名家であり、祖父、兼実の代に九条家をたちあげた。いわゆる五摂家である。道家自身は鎌倉幕府開闢時のキャスティングボート、あるいは、それ以上の選択権を有していた人物でもあったらしい。母は源頼朝の姪という一等の血筋でもある。もっとも、一等か二等かでいえば、道家の方が一等であったのかもしれない。系図を確認、整理すると、道家鎌足からの直系、頼朝はというと、鎌足の子(?)不比等の娘である光明子聖武天皇から派する清和天皇以降の筋にすぎない。清和源氏である。そのもとをたどると、義家(八幡太郎)、義綱(賀茂次郎)、新羅三郎 (義光)がいて(さらに弟の快誉)、冒頭の出雲の次第と三郎が、つながった。とはいえ、それは、わたくしの頭の中での妄想であり、それ以上の関連性はないけれども、ふと、歴史上のつながりをみると、義家(太郎)及び義綱(次郎)の母親筋(二人の祖父)にあたる平直方(たいら・なおかた?)にぶつかり、立ち止まった。こちらは桓武天皇より葛原親王、高見王、高望王、そして、平国香など、いわゆる桓武平氏の流れにある。(三郎は異母兄弟らしい)
 そういうことを、色々と考えているうちに、江戸川区平井にある目黄不動(尊)を訪ねたくなった。11日夕方のことである。正式には天台宗牛宗山明王院最勝寺という。都立小松川高校と接するように善通寺、大法寺、成就寺とともに小さな寺町を形成している。江戸五色不動という伝えがあって、これは江戸時代に書かれた「夏山雑談」の中にある。著者ははっきりしていない、小野武格あるいは小野高尚らとともに、平直方という説がある。(桓武平氏の直方とは別人であるし、そもそも時代が異なっている。出自などについては一切分からず、そのままにしており、また、夏山雑談の筆者かどうかも分からない。五色とは、黄色のほかに、目黒、目赤、目白、目青があるという。ただし、これすら、根拠は薄いらしいけれども、そのような話(伝え)があること自体が面白い。三郎とはまったく方向違いであるけれど、のってみた。JR総武線「平井」駅というのは降りたことがあるのかどうか、たとえ、あったとしても、その日ほど、駅を離れて歩いたことはなかったと思う。目ざす不動尊まで10数分で、もう荒川に半分呑みこまれそうな間近にひっそりとあった。特に何かあるわけでもない、門脇左右に仁王像がこちらを睨み、中に入ると、二十ばかりの蓮の鉢が際立っている。残念ながら、開花にはまだ少し早く、その頃にはもう一度訪ねてみようかと、本堂をみると、閉じ切って、壁面に護摩修行中の旨を伝える木彫りの吊るし看板、蓮同様、諦めて、社外へと出て、由来書きを読むと、もとは、本所(表町)にあったとある。戻り、確認し、翌日は、吾妻橋界隈へとでかけることに。五色不動については『東京紅團』に詳しく紹介されている。どういうわけか、目黄は2か所あるというのも不思議であるけれども、ともかくも、最初に、平井の方を知ったのだから、と、こちらに徹することにした。
 吾妻橋はもう浅草界隈といって良いのだろうか、それとも、(そう表することは)とんでもない、ことなのであろうか。本所吾妻橋駅を降りて、「上がる」と、「両国」を隔てる隅田川があり、こっちは本所で、途中橋を半分ほど渡りながら、パリ仕立て風の川舟(水上バス)を覗き込み、残り半分を歩くと、あっちが浅草となる。あるサイトからは拝借した古地図を頼りに以前あったという最勝寺付近の空気を吸いにほっついてみた。最初に現存する如意輪寺の前に立ち、江戸時代の街の中に身を投げる。とはいえ、目の前には区役所やのちほどお邪魔するアサヒビール吾妻橋本部ビルなどからなるリバーピア吾妻橋という現実があるものだから、なかなか投げづらい。本所については本題ではないので、取り急ぎ、前の最勝寺を探したけれども、もちろん、実際あろうはずがなく、その気配だけを感じながら、アサヒ本部ビルに戻り、22階にある展望室へ。以前は代金と引き換えに缶ビールをバサッと渡されたような記憶もあるのだけれども、今は、違っている。金500円でグラスに注がれたビールが供される(もちろん、銘柄は選べないけれども)。ここは、おそらく、東京の中でも展望という次元においては一等であると思っている。中でも、西側の窓席は人気で、いつも混んでいる。幸い、この日は、西陽にかかって、先客が別の席へと移動した隙間に座すことができた。もう少し我慢すれば、夕陽が沈む様をみながら、麦酒を味わえる。そうでなくても、ここでは、浅草が一望でき、副都心(新宿)など江戸市中のほぼ全容を眺めることのできる絶景のため、前述したように西側はプレミアムシートになっている。ただし、それも2〜3年で変わるかもしれない。東側、しかも、すぐ間近に新東京タワーができれば、東側が特等席になるに決まっている。本所については、いずれ、また、書きたいと思う。
吾妻橋、五山八海では、ないような・・・]
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[右隅、隅田川を渡してみえるのが駒形(こまかた)橋である]
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青空文庫に所蔵されているので、そこのみを引用する。
 《川蒸汽は僕等の話の中(うち)に廐橋(うまやばし)の下へはひつて行つた。薄暗い橋の下だけは浪の色もさすがに蒼(あを)んでゐた。僕は昔は渡し舟へ乗ると、――いや、時には橋を渡る時さへ、磯臭(いそくさ)い?(にほひ)のしたことを思ひ出した。しかし今日(こんにち)の大川の水は何(なん)の?も持つてゐない。若し又持つてゐるとすれば、唯泥臭い?だけであらう。……「あの橋は今度出来る駒形橋(こまかたばし)ですね?」O君は生憎(あいにく)僕の問に答へることは出来なかつた。駒形(こまかた)は僕の小学時代には大抵(たいてい)「コマカタ」と呼んでゐたものである。が、それもとうの昔に「コマガタ」と発音するやうになつてしまつた。(略)》
 引用した同文庫の文末に「昭和2年5月」とあって、コマカタ橋は6月に開通しており、今でいえば、供用を間近に控えた現地からの実況中継のような作品である。
 いうまでもなく、その翌月、巨星は手折れた。
本日は、三郎がどこかにいってしまった。次回、そのことについては、ふれたいと思う。