三山五山

 引き続き、「列子」を読み流していくと、五山について、以下のような「オチ」があった。前回と同じように、「WIKISOURCE;維基文庫、自由的圖書館」より引用したい。
 而五山之根無所連箸,常隨潮波上下往還,不得〓峙焉。
 仙聖毒之,訴之於帝。
 帝恐流於西極,失群仙聖之居,乃命禺彊使巨鼇十五舉首而戴之。迭為三番,六萬歲一交焉。
 五山始峙而不動。
 而龍伯之國有大人,舉足不盈數步而暨五山之所,一釣而連六鼇,合負而趣歸其國,灼其骨以數焉。
 於是岱輿員〓二山流於北極,沈於大海,仙聖之播遷者巨億計。
 ・・・以下、大雑把に読み下してみる。
 この五山はアッチコッチへ気侭に流れる根無し草(山・島)で、居場所が定まらないため(ひょっこりひょうたん島状態)、仙人たちも平穏でいられない。
 仙人たちは実情を皇帝に上申し、改善を願い出た。
 皇帝も(五山が)西極に流され、仙人たちが棲めなくなるのを危惧し、禺彊(ぐうきょう)という北の海神(水神)に命じて、巨大な亀15頭の首の上に五山を載せることでもって、安定するように計った。
 一山につき3頭が3交替制で、6万年ごとの勤務体制が当たったらしく?、思惑どおり、五山は動くことなく、仙人らも安住できたという。(数字に弱い、わたくしなので、良く分からないが、合計45頭なのか、それとも、15頭を3等分して、5頭づつ、つまり、一山1頭なのか、それでは、亀さんの負担が重すぎるような・・・それとも、、、)
 しかして、龍伯という国に住む、数歩で五山に行き着いてしまうほどの巨人(ガリバー、または、だいだらぼっち的大男)がやってきて、6頭の亀を釣り上げて、国に持ち帰り、その骨(甲)を(亀甲占いのために)焼いてしまった。
 そのため、岱輿(たいよ)と員〓(いんきょう)は北の果てに流され、とうとう大海に沈み、多く(巨億)の仙人たちが棲処を失って、遷者(注)となった。
(注)遷者は分からない。遷客=左遷された人、処罰で流された人とあるので、ここでは、単に「流された」≒山を失くして、彷徨ったということか。また、遷客には仙人(僊客)という意味もある。(手許の漢和辞典より)
※どうも、一山当たり3頭×五山のようである???が、亀は万年ではなく、6万年か?、まだ、分かっていない※
 以上によって、「三山」となるわけであるが、何故、岱輿と員〓なのかは分からない。これ以降、三山伝説へとなり、徐福の話があり、『史記』においては蓬莱、方丈、瀛洲が、実在してもおかしくない程度の土(の)香がどこかしこに残っていたのであろう。
 列子の上記文章の続きには、『帝憑怒,侵減龍伯之國使阨,侵小龍伯之民使短。至伏羲神農時,其國人猶數十丈。』(上記、維基文庫、自由的圖書館より)とあり、皇帝は(亀を持ち去られ、二山を失い、仙人たちが流浪したことに)怒って、巨人の住む龍伯国を襲い、領土を狭め、民の体を縮めたが、それでも、彼らは数十丈(一丈は3メートル程度)あったという。
 「湯又問:「物有巨細乎?」に対する、夏革の答えである。
 やはり、荒唐無稽というのであろうか。
 三山というのはわたくしどもにも在る。思いついたままを挙げると、出羽三山(月山、湯殿山羽黒山)、鳳凰三山地蔵岳観音岳薬師岳南アルプス)などで、他に、熊野三山(本宮、速玉、那智)というのもある。東京はというと、比較的平坦な土地だけに困るけれども、わたくし的には、大山、高尾、筑波であろうか。(ただし、一般的には川崎大師、高尾山、成田山のようで、どうしても神々しい方向に行ってしまう)では、と、江戸三山を調べてみると、『山形屋、山本屋、山本山』に当たった。いずれも海苔屋さんである。少し、紹介すると、山形屋海苔店さんは、1764(明和元)年に創業、その名のとおり、山形・米沢出身者が江戸で商いを創めている。山本屋(山本海苔店)さんは、1849(嘉永2)年、初代山本徳治郎翁が日本橋室町の現在地に海苔の専門店舗を創業、武家出身で、幕末風雲の時勢を達観して商人に転向したと同社サイトにある。山本山さんの創業は1690(元禄3)年で、″三山″の中でもっとも古い。京の都より、江戸に出、当初は茶業を営んでいた。ただし、海苔の販売は1947(昭和22)年とあるから、他二山に較べ、かなり晩い。現在はもう、遊園地や都市リゾートとして、東京の観光名所に変わっているけれども、江戸前はもともと海苔の産地であった。浅草、大森、川崎や、もちろん浦安も。わずかに、木更津辺りで、磯の香を感じられた時期もあるが、今はどうなのであろうか。海苔の生産(養殖)量を調べてみた。『漁業・養殖業生産統計年報/養殖魚種別収獲量累年統計』(農林水産省)によると、1956(昭和31)年における「のり類」の生産量(生重量)は年間65,603 トンとある。以降、増え続け、94(平成6)年をピークに低下傾向にあるものの、03(平成15)年は347,354トンとある。一方、消費量はというと、家庭内においては1963(昭和38)年に1世帯当たり年間1,664円が、06年では2,303円(家計調査、総理府統計局)、海苔の価格にも(高値誘導・安定化政策もあって)大きな変動はないので、世帯での消費量(枚数)が増えている(※両年の物価水準は考慮していないけれども)ことに加え、コンビニエンスストアなどでの「おむすび」販売量が急増していることもあり、上記のように、海苔生産量の増加を支えている。ただし、養殖漁家はこの数十年で約十分の一に減っており、瞬時考えてしまったけれども、(他の食物同様に)薬剤や促成剤の使用とともに、「冷凍網」という技術により、まだ成長段階の「海苔っこ(芽)」を冷凍保存して、二期あるいは三期にわたって、海に戻す方法でもって、生産量を伸ばしているということらしい。
 名古屋にある海苔屋さん「浜乙女」のCMに"でえたらぼっち"(だいだらぼっちが名古屋語転訛)が出ていた。(今はどうか、見ていないので分からないけれども、同社サイト内ではご健在である)そのサイトによると、身の丈は数十メートルから数万メートルとある。海苔一枚は20センチ四方、10枚で一帖と数えるらしいが、だいだらぼっちや龍伯の巨人が食べるオムスビには何帖必要なのか、心配してしまう。海苔の歴史は古そうである。上記、三山サイトなどによれば、大宝律令には明記されているとある。おそらく、それ以前に大陸から伝わっていたものと考えるのが普通であろうが、「株式会社ヤマコ」(安城市)という海苔屋さんのサイトに興味深い記事があった。徐福と海苔である。
 海苔(干しのり)の都市別消費量もあげておいた。やはり、江戸前が多い。ただ、さいたま市が群を抜いている、その理由について、考えてみたが、分からない。よくみると、家計調査の05年には同市の消費金額が異様に高いことには気づいた。(一ケタ異なる)海苔のイベントでも催されたのかどうかは検めていないけれど、05年を除いて考えた方が良いのだろうか。なお、同市について、重要なことを書き忘れていた。浦和は全国的にも名だたる「うなぎの街」(拙ブロ07年5月2日、『三重に』)であるが、02年以降、激減(うなぎくだり)している。01年(平成13)年5月1日に合併(その後、05=平成17年4月1日にはお雛様の街、旧岩槻市とも)し、他の街と薄まって、その傾向(特性)も希釈されているようである。合併は「やはり」罪つくりである。
[過去7年間の干しのり消費量](png使用)
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