福博

 長崎そして佐賀とほっついて、最後は博多・・・、といえばよいのか、福岡なのか、こういう場合に迷ってしまう。わたくし的な一般論で書けば、博多である。例えば、今回でいえば、佐賀⇒博多(駅)⇒天神(宿)という行動でしかないけれども、戻ってきて、どなたかに知らせる場合でも「博多へ」という表現になるのであろう。ただ、都合上、ふく(29)が来ないと拙いので、福博としただけのことである、もちろん、博福でも構わない。
 少し、福岡と博多(または、博多と福岡)について書く。今回のホッツキは中洲(那珂川博多川にはさまれた地域)を望む宿に泊りながら、昼下がりの何とも間の抜けた中洲周辺をぅろぅろとし、春休み最後の週末で賑わう天神をチョロチョロとしていた。取り急ぎの用事もあり、多くの時間を部屋で相棒(パソ)と過ごさなければいけなかったけれど、酷な山登り(不慣れ;拙ブロ07年4月7日付)のあとでもあったので、ちょうど良い休憩ともなった。遅い朝・昼兼用食および早過ぎる夕食を同時にと、潜った商業ビル地下の食堂で摂り、ニ、三軒先に偶然見かけた「阿わび屋大原老舗」(唐津)で松露饅頭を求めた。佐賀で買いそびれていた。(福岡空港でも販売しているし、都内でも買えないことはないけれども)ついでながら、都内でも中々手に入りにくい、ある作家の書籍2冊を見つけ、迷わず購入する。以上がわたくしの全行動であるけれども、振り返ると、一切、博多には立ち入っていないことになる。博多部についての定義は、「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」が端的で分かりやすいので、引用する。
《地理的には博多区内北部の那珂川御笠川に挟まれた地域となる。(ほとんどの区域は那珂川の支流にあたる博多川御笠川の間、つまり中洲の向こう右岸を指すようである。ウィキ解説の後段に、そのような記事がみられるのであるが、あえて、上記の文章を引用したのは、以下にある南北の境を明確にしているからである【筆注】)北西端は明治時代の海岸線に相当する那の津通り、南東端はかつて房州堀が存在した国体道路近辺となる。》
 電子地図で確認してみると、那の津通りに面して北端に神屋町、対馬小路の地名がみられ、通りの向こうは築港なので、やはり、ここが元の海岸線なのであろうか。地名の発端は秀吉の「街づくり〜太閤町割」(博多町割)であるらしい。もともと、大宰府を中心に回っていた北九州一帯は、その後、大内、大友、龍造寺、島津など各氏が入り乱れ、秀吉の支配下に治まった後、小早川隆景が執り、名島(現在の福岡市東区名島1丁目、名島神社辺り)に居を構えた(入封した)。隆景は「束ねた三本の矢」を折ることのできなかった毛利元就の子のひとり(三男)である。(史実かどうかは疑わしいというのが一般的になっているが、その後の隆景を考えると矢のことは本当のことでも良いと思っている)同時に前述の「割」が始まった。中心となったのは今もなお町名として留めている神屋宗湛(そうたん)らである。ただし、福岡市制=1889;明治22年当時は大浜、あるいは市小路浜、西町浜と呼ばれていたらしく、神屋町となったのが何時なのか、色々とみているが、見当がつかない。(『博多を歩こう/博多を巡ろう』より)おそらくであるが、もともと宗湛の業に対する褒美として秀吉あたりが同地を与え、家名をもって土地の名としたのであろうが、近代になって、別の名を騙ったものの、やはり、もとの名が良いということで、戻ったのであろうか・・・たしかに福博の街には旧町名を残した碑があって、そちらの方が居心地が良いと感じられる町衆の方も多いのであろう。二日前にいた長崎にもそのような空気があり、住居表示板には現住所(町名)とともに括弧書きで旧町名が添えられていたり、あるいは、独立表示されていたりするのを見て、嬉しく思ったけれど、後ほど戻って、調べてみると、実際に旧町名が復活したという記事を見つけた。それが、おそらく博多の方のブログ「博多連々(つれづれ)」であるというのがなんだか楽しい。地図で確認すると、銀屋(ぎんや)町(まち)、東古川町いずれも眼鏡橋近くの「御くんち」の踊り町を分掌している旧い街の真っ只中にあり、ごく普通に儘(まま)の名を継いできたのであろう。博多の場合も「流(ながれ)」という、旧くからの流れを背景とした旧町名への憧憬(しょうけい)を脇に置き捨てずに続いている。踊りなり、祭りなり、身体と心の躍りの作用もあって、互いのつながりも深まるのであろうか、いわゆる「結い」という気もちの連鎖を普段は、そうは感じていなくても、無味無意な役所仕事である町名変更という時折の無策に集団的(町ぐるみでもって)に反応するのは、しごく、あたりまえのことでもある。
さて、
 宗湛はもともと織田信長に阿(おもね)っており、死後(宗湛も、その日、本能寺にいたらしい)、秀吉に鞍替えしたようなところもあり、茶の道にも詳しいことからか、「筑紫の坊主」とも呼ばれていたが、想像で書くのは、今も継がれている子孫の方々には、はなはだ失礼ではあるけれども、違う坊主の姿が浮かんでしまう。どうも家康とは相性が悪かったらしいと聞くと、なんだか可笑しい、アッチ向いてホイは権現様がいかにも嫌う類のようでもある。曾祖父(祖父の説もある)を寿禎(じゅてい)といい、石見銀山の発見者である。寿禎の生年が分からないのであるが三代目?になるのだろうか(二代目・主計の子という説と初代の永富の兄弟という説がある)、銀山発見は1526(大永6)年である。宗湛は六代目(1553?〜1635年)とあるから、五代目(宗湛の父、 紹策)まで遡るとして、四代目が分からない。いずれにしても、すでに当時から筑前・博多の豪商といわれていた神屋家の財をさらに深めたのが寿禎であり、その二代か三代あとに宗湛がいた。神屋町の隣は奈良屋町である。やはり、豪商といわれた奈良屋九兵衛に由来するらしいが、今の時点ではそれ以上のことは分からない。奈良屋といえば、江戸中期に紀文(紀伊国屋文左衛門)とともにお大尽として名高い奈良茂(ならも、奈良屋茂左衛門、日光東照宮の御普請などを行なった材木商)がいるが、係累はなさそうである。博多の奈良屋はどうも奈良辺りから流れてきたような気配もあるが、「ならも」の方は江戸の在、「ならも」自身は深川に生まれたという(大坂という記述もあったが、それ以上の裏づけをみつけていない)。「ならも」については司馬遼太郎氏の『街道をゆく/本所深川散歩』が詳しく、軽妙で、面白い。現在の博多小(旧奈良屋小)辺りには宗湛の屋敷があったという。ただし、奈良屋町は1966(昭和41)年に大胆かつ無茶苦茶な町名変更によって残ったクチである。以前は他に、釜屋町、芥屋町、古渓町、奥小路、萱堂町などがあったらしい。今、当時の町名はほとんど解体されてしまったけれども、わずかに「流(ながれ)」の中に留めていることは、すでに書いた。流は初夏の博多(これは博多で良いのであろうか)を駆けぬける祇園山笠の最小最大単位であり、町割に由来しているというのも、それに近いことをすでに述べた。宗湛ゆかりの奈良屋町は幅数十メートルの大通り(昭和通り)に面しているが、さらに南東方向に下ると、通りの名は明治通りと、これも素っ気ないけれども、ほどよい狭さでもって、歩き心地に途惑いを感じさせない趣きがある。橋を渡り、中洲を過ぎると、福岡部の、いえ、福博でもっとも華繁なTENJINにいたる。(いづれ、つず´く、かも)