不老不死

 長崎市内の宿は浦上天主堂に近い場所にあり、堂にいたる小さな商店街をホッツキながら、拝見に行った。幸い、ミサの日ではなく、邪魔することなく、堂内を巡り、意外と大きな内部に驚いた。旧堂は1895(明治28)年着工、1914(大正3)年に献堂式が行なわれた。ただ、現在の堂にもある双塔が完成したのは25(大正14)年ということであり、都合30年近い歳月を要している。そして、20年後(45=昭和20年)に被爆、多くの信者とともに堂ごと斃れた。再建は59(昭和34)年、一回り大きくなった今の姿がある。(『浦上小教区変革史』)長崎教区カトリック浦上教会より)。その宿に入る前に見かけた階段を昇ったところにある朱塗りの建物が気になっていて、爆心地公園を歩いたあとに、門前から、のぞいてみた。宝来軒という中華料理屋さんであった。別館とあるので「本」を探してみたが、なく、翌日、連れられていった新地の中華街に本館があった。(皿うどんを食べたのは別の店であるが)宝来というのは、地名としては、おめでたいのであろう(宝がやって来る)、ほかに、鳳来というのもある。また、蓬莱といえば、「豚まん」も有名(大阪・551)である。
 秦の始皇帝というのは、万里の長城兵馬俑で知られているが、もともと虚弱体質であったという説もあり、生涯、不老不死に拘っていたらしい。その隙を突いたとされるのが、現在の徐福伝説となる。司馬遷(註:遼太郎氏ではない)が、『史記』の中でふれており、信憑性が高いという評もある。このことは、拙ブロでも何度かふれてきたが、史記の中にある不老不死の妙薬があるとされる蓬莱をめざすべく皇帝の支援を受けて旅立った徐福が着いたとされるのが佐賀県諸富町(現在は佐賀市の一部)の浜であり、そこから、薬を求めて登ったとされるのが金立山(きんりゅうざん)である。
 行ってきました。
金立神社上社

金立神社側から
 このお社を訪ねたいという気もちがずっとあって、片道1時間の山登りも、ようやく来ることができたという想いが強いためか、生来、そういうガンバリのない、わたくしにしては、と、長崎の坂といい、この坂といい。(つづく)