不意

 所用でもって、鬼怒川に伺った帰りに、ゆったりと助手席でもって、のんきに風景などを眺めながらいると、向こうの方に立派な杉並木が見えて、思わずというのか、車ごと、そっちの方へ吸い込まれていた。そこが往時の日光杉並木街道ではないかということは、なんとなく想像できたが、まだ夕暮れまでには間があるにもかかわらず、薄暗いのは、樹齢300年、樹高30メートルの堂堂たる杉の「所為」である。車がすれ違うのも精一杯程度の狭さであり、想像すれば、人か馬だねというような会話をしながらいると、車高をはるかに上回る盛り土が両脇から迫ってきて、ところどころに力強く根を張る様が圧巻である。調べてみると、総延長37キロに1万3千本あるうち、年間100本程度が枯れているという。単純にいえば130年でゼロになる勘定となる。[日光杉並木オーナー制度](栃木県教育委員会事務局文化財課)そのため、1本につき1千万円の「里親」を探している旨も記してあったが、つてつ津軽鉄道;ストーブ列車が走っている)のレール一本からのオーナー制度とは桁があまりにも違いはあるけれど、ただし、手放したい場合は全額、県でもって返却(買戻し)してくれるそうである。
 しばらく走り、カーナビをのぞくと、辺りに目印となる物が何もないせいもあるのだろうか、今、わたくしたちが走っている通りの名だけが、大きく表示された。それが、
 例幣使(れいへいし)街道
、であるという実感はすぐには湧かなかった。確か、この辺りにあったのだろうという、いい加減な当てはあったものの、「不意」とはこういうものなんだろうと、その時は無責任な説明に終始したので、改めて、記しておこうと思う。例弊使街道は、家康の没後、秀忠により造営された日光東照宮に、朝廷(京都)から毎年、宮に貢物を召す(贈る)際に遣いが利用したことから、その名がついた。毎(例)年、家康の命日に貨幣・幣束や絹といったミテグラ・ヌサ(幣)などを携えた遣(使)いが通った道ということなのだろう。大雑把な経路は、中山道倉賀野宿」から岐かれて、現在の都市名だけを示すと、高崎、伊勢崎、太田(以上、上毛野)、これより下毛野で、足利、佐野、栃木、鹿沼、今市を経て、日光街道今市宿に併わさる。振り返ってみると、わたくしたちは、そのホンの一部である区間を経験したことになる。例幣使街道については、ふたつのことが、わたくしの頭の中に靄靄と残っている。ひとつは、イザベラバード女史のことである。『日本奥地紀行』は横浜・江戸から蝦夷地に到る「できごと」を妹さんに宛てた日記(手記)であるが、まだ、何度も読み返している。女史は粕壁(春日部)を経て、栃木に出て、このあと、日光に向かうが、当時、一般的に使われていた日光に通じる奥州街道(宇都宮付近までは日光街道と同じ)を行かずに、例弊使を使う。
 『・・・草や羊歯で覆われた土手が八フィートの高さから傾斜していた。土手の上に杉の木がそびえ、それから草のはえている二本の歩道がある。これらと耕作地の間には、若木や茂みが目隠し役をしていた。多くの木は四フィートのところで二股に分かれる。たいていの幹は周囲が二七フィートである。それは五〇−六〇フィートの高さに達するまで細くなったり枝に分かれることはない。・・・』(日本奥地紀行、高梨健吉氏訳、平凡社ライブラリーより)
 樹高を除けば、ほぼ130年前に女史が見た杉を、わたくしも拝見したことになるのであろう。そういう想いが、実をいうと、もう少し整理してから、訪れようと思っていたレイヘイシが、不意にやってきた、という反動となっている。
 もうひとつは、鴎外翁とレイヘイシのことであるけれども、今は心が呷られていて、そこまでは到らない。