尾島町〜北関東垂れ記2

 前々日(26日)からの続きとなる。
 旧尾島町は今は太田市となっているが、その太田も含め以前はほぼ全て新田氏の所領であった。利根川と並び、この地域の重要な河川である渡良瀬川をはさんだ北側(左岸)はおおむね足利氏の版図であり、前者は上野国(上毛野)、後者は下野国(下毛野)、現在でいえば群馬県と栃木県とになる。両家は係累にあり、その後の攻防及び興亡についてはいまさら語ることもないであろう。今夏の旅では日程上、のちほど書くことになる方が「主」となってしまったため、訪れることはできなかったが、尾島町は『徳川発祥の地』として有名であり、まだ三河松平郷の田舎郷氏(士)でしかなった清康(家康の祖父)が新田庄・世良田(せらだ)家に目をつけ、のちに家康が得川(えがわ⇒徳川)家を「勝手に」名乗ったともいわれている。征夷大将軍(つまり国支配)に就くための最低条件であった清和源氏の流れを汲む系に成り変わる(化ける)ことを謀ったことで、家系図詐称というのはよくあることではあるけれども、これほどの大胆な所業はないであろう。そもそも両地は直線距離で200キロ以上離れており、しかも、松平郷(または岡崎との説もある)は一筋縄で行けるような平地ではなく、逃亡の末、たどり着いたという話を真に受ける者は誰もいなかったであろう、ただし、以降、松平家は徳川家となり、江戸開闢来、尾島町将軍様の寵愛を受けることになる。以上のことは、通説であり、確かめようがないことであるけれども、「徳川発祥の地」という「宣伝文句」に惹かれて、今度は寄ってみようかと思っている。処変わ(化け)れば、であろう、南北朝の争いに敗れた得川(新田)氏を名乗る徳(得?)阿弥は松平郷に流れ着き、名主の娘婿となり、松平氏(のちの徳川)の始祖となった、と、する説も、もちろん健在であり、わたくし的には、以上の両説をどうのこうのという気もちはないけれど、清康のあるいは家康の「目のつけどころ(の巧みさ)」ばかりが気になっている。もっとも、徳川の例をもってすれば、新田と足利を係累とすることも、どこまで信憑性があるのか、そういうことも、できれば、勘ぐって、目をつけてみたい気もする。
 さて、時代をかなりコッチ側に戻すと、この町はある意味日本を近代戦争へと導いた一端を背負ってもいた。今、尾島町太田市となっているが、同市は全国でも有数の工業都市であり、その礎は、スバルでおなじみの富士重工の前身、中島飛行機である。創業者の中島知久平翁(別名、飛行機王)は尾島・押切の農家に生まれた。押切はというと、もう、例の瘤のような妻沼小島に近い在である。電子地図を確認すると、中島邸というのが遺されて(記されて)いる。翁以降3代続いた政治家一族でもあるが、それゆえに起きたとも考えられる事件すら、もう人の噂も75日であろうか。中島飛行機というのは戦後、スクーターを製造していて、調べてみると、ラビットという愛称で60万台以上売れたらしく、なお、今も3000台ぐらいが実働(現役)という情報を見つけた。(日本が生んだ世界の名車「ラビットスクーター」の物語)46年に試作、翌年本格的な製造、発売開始とあり、68年までとある。ちなみに、スバル360が58年にもう登場しているので、10年を経て、代は変わりつつあったのであろう。わたくしゴトで恐縮ではあるが、当時、わたくしの父はライバル社のスクーターを販売する「セールスマン」で、わたくしも背中にへばりつきながら、同乗した記憶がある。そういう、つまらぬこともあり、犬も歩けばたくさん当たりそうなスバルの文字を眺めながら、太田の町を歩き、できれば、近いうちに、尾島で、のんびりと過ごしたいとなぁと、妄想していた。
 ところで、この胃下垂状態はまもなく、なくなるそうである。埼玉県側に陥没した南前小屋地区の深谷市編入が両議会で採択されたということである。また、瘤のように上に膨らんでいる妻沼小島地区(熊谷市)も太田市への編入を求めている。
 もう、そういうことなのであろう。いまさら、新田だ、足利だ、世良田、得川だと、そのようなコトをいっている場合ではないのであろう。それはそれで、よく理解できる。
 次回拙ブロでは館林(今夏の主役)を歩いてみる。
[AMBREなMILK]
※本文とは一切関係ないけれども、本人が呑んでいる
amber_milk