north_KANTOry(北関東・垂れ記)

 標題の北関東(north_KANTOry)とは一体、どの範囲をさしているのだろうか、あるいは、仮に、訊かれた場合、どう答えてよいものだろうか、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、《関東地方を(あえて二つに割った際:筆者注)、北側の茨城県・栃木県・群馬県とあり、さらに、《利根川以北》ともある。また、《埼玉県を含めて四県とすることもあるが一般的ではなく、対義語は南関東》と解説されている。以上のことに、反意はないが、念のため、他も当ってみることにする。国土地理院数値地図」というサイトをあたると、関東は上記4県に1都2県(千葉・神奈川)が加わる。ただし、同院の関東地方測量部には山梨と長野が参席し、これは元締めの国土交通省(旧建設省)のそれに準じており、さらに、同省の整備局(旧建設省系)と運輸局では区分が異なっている。また、雑多な役務が寄せ集められた総務省はより複雑で、おそらく省内の人たちもよく分からないのであろう。これらは例えば、河川の流れ具合(上流=水源がどこで、下流=飲む側はどこか)、道路、鉄道のつなぎ具合などのご都合で分かれているものなのであろう。ただ、北か南かについては、不可解な、数合わせとしか思えない選挙区以外では明示されていないようであるが、「あえて分ける」のであれば、やはり、利根川が基準となるのであろうか。(大宮に北関東支社というのもよくあるけれど)
 あるいは、KANTO(関東)という分け方そのものが「通り」の悪いことかもしれない。とはいえ、首都圏や東京圏などの呼称に較べれば、秀でていると、個人的には思う。
 さて、関東という名称自体の原(もと)は、やはり、関の東ということなのであり、この場合、箱根および碓氷が狭義の関と考えれば、現在の関東地方をおおむね蓋っていることになろう。関西ともいう。では、そこは上記二関の西を占めるのだろうか、ちょっと考えれば、そうでないことに行き着く。調べたところ、鈴鹿三重県関町、現亀山市)、不破(岐阜県関ヶ原町、名前がそれらしい)、愛発(あらち、現在の敦賀市)があって、それら(三関)東極を以って「西」とするようである。いずれも天下の險であり、難攻不落(不破)であったのであろう、今でも、北陸本線敦賀から京に上る際、ぐるる〜んと回転するループはその一端をあらわしていよう。ついでに言えば、江戸時代の関東は箱根、碓氷に加えて小仏があり、これをもととすれば、山梨は関東に含まれないということになろうか。わたくしが習った中部地方の範囲もこの点に依拠しているのであろう。
 「関」というのは、中国から伝わった(教わった)ことであろうし、関東・西以外にも、関内・外という使い方もあった。横浜・関内はその典型であろうか。関という発想はもう、実質的な意味合いが薄れているとも思ったが、そうではなく、関が官に変わっている、あるいは、もともと関=官ということかと大雑把にくくれば、今でも、十分、使い勝手があるのだろうか。
 暑い夏の、熱中症になりかけて参った日がある。拙ブロ「長雨月」(06年9月2日付)で書こうと思っていた北関東について、どうやら、熱も下がり、また、週末にはその一地にもお邪魔することもあり、わたくしと、「north_KANTOry」との関係はまったくもって希薄であるが、この間(夏以降)、想っていたことを、雑に、書き留めていきたいと思う。本日は、利根川を上ってみた。総じて、この川は界となっており、河口から30キロほどの霞ヶ浦あたりでは、少しややこしい事情がみられるものの、「その後」はおおむね平穏にその流れでもって県境を分けている。ただし、坂東太郎(利根川)は長い時節の中においては、何度も蛇行を繰り返しており、土地の様相を変えている。野田市付近もそうなのであろうか、ちょうど、鬼怒川が岐かれているあたりで、千葉県側が茨城県の方に出っ張っている。さらに上ると、妻沼町(現在は熊谷市)あたりでも左岸の群馬県に迫り出しており、そのかわりというのではないけれど、少し上流の尾島町(現在は太田市)では逆に胃下垂のように埼玉県側へと陥ちこんでいるのも、太郎さんの気まぐれなのだろうか。
 次回は、上記、胃下垂状あたりから、想いを馳せたいと考えている。