自分投資と自分消費

 標題について、気になっていたので、考えてみた。投資と消費というのは、いずれも、多寡は別として、財を差し出す行為であることには変わりはない。ただし、辞書を確認すると、前者は、利益(儲け)を見込んで投ずること、較べて、後者は【つかって、なくすること】と、ずいぶん素っ気ない解釈がなされている。ただ、次項に【欲望を充足するために財貨を消耗すること】ともあって、ついでに辞書を一枚めくると、消耗(しょうこう)【使ってなくすること】ともあるが、欲望の充足という点では投資もその一端に属しているのではないかという考え方もできる。そのことに、自分という要素を加えてみると、どうなのだろうか。自分投資は、「自分に対して、何らかの見返りなり成果を求めて、財を投ずること」か、また、消費の方はと、普通に考えれば、自分を消費すること、特に「使ってなくすること」という点に執着すれば、人生そのものをあらわしているともいえて、わたくし的には、パチパチ(拍手)で、できれば、そうしたいと思うところである。
 しかし、書籍案内やサイトなどを眺めていると、自分投資と自分消費は同じ意味合いで用いられていることが気になる。ざっと、自分消費のサイトコメントをみると、多くは「自分のために消費すること」とあるのだが、その意味は、投資に近い。同じような傾向として、時間消費という言葉が気に障る。そもそも時間さんからみれば「あなた方に消費されるようなワタクシ(←時間さんのこと)ではないですよ」と、おそらく考えていらっしゃるだろうし、そもそも、わたくしたちは、時間さんという普遍の帯の中にたまたま在る(せいぜい100年、欲張りすぎではあるが)だけのことであって、とても時間さんを消費しているとはあらわせない。本日もまた、琥珀色牛乳を頂きながら、久しぶりにお顔をあらわされたお月様と、翻って、拙ブロ右上の月表を眺めながら、日に日に、あるいは、月々に、そして、秒々(刻々)と、わたくしという浪費が進んでいることを、ただただ、想う、それだけのことでもあるし、できれば、そのことに↑同様、パチパチとしたい。