横浜居留地84番(オリエンタル・ホテル)

 澤(さわ)護(まもる)氏の『横浜居留地のフランス系ホテル』によると、オリエンタル・ホテルは1872(明治5)年秋に、インターナショナルホテル(68年開業、居留地18番)の共同経営者の一人、フランス人ボナによって新たに築かれた。彼の名をとって、しばしばボナ・ホテルとも呼ばれていた。女史の宿泊からわずか半月後(78年6月10日)にはボナ自身が居留地20番にある海岸通りの大旅館のひとつであるグランドホテルを買収したことで、いったん閉じ、経営権を譲ったのち、1年後にオテル・ペィル・フレールとして再開している、とある。したがって、女史はオリエンタル・ホテルの宿泊名簿のかなり最期の方に記載されていることになろう。ちなみにオリエンタルというのはよほどホテルの名として使い勝手が良いのであろう、澤氏も以下のように指摘されている。『1865(慶應元)年にはドイツ人の経営したオリエンタルホテルがすでに横浜居留地にあり、さらに同名のホテルが後日オープンされていくので、この名称のホテルについては年度や地番に注意する必要がある。』(「横浜居留地のフランス系ホテル」より)
 まさに、わたくしが犯したこと(海岸通りのオリエンタルホテルを女史の宿泊したホテルと混同)を警鐘されていた。実はこの澤氏の論文に当たったきっかけは別にあった。そして、そのサイトの持ち主もおそらく2枚のカルタに惑わされていたようである。『バード探しの旅紀行』はバード女史の奥地紀行を辿っていく素的な作品であり、かつ、羨ましい限りの旅行体験記(紀行)である。わたくしの妄想は、9割以上、このお二方の優れた調査力、秀でた示唆により埋められており、今更、居留地に、また、横浜に出っ張っていく理由は、中華街で、ちょっと一杯以外には、殊更ないように思えたのであるが、ここで、新たな妄想(迷い)が生じてしまった。居留地84番、今の山下町84番は電子地図によると、ホテルサンポートの位置をさす。同ホテルのトップページをくくると、
《旧横浜居留地97番、現在の港ヨコハマ山下町84番地・・・》とある。
 旧居留地の番号と現在の山下町の番地はほぼ同じということは上記お二方のご指摘や横浜市などの資料でも確認できていたが、同ホテルHPの文言により、わたくしの中に1割弱残っていた妄想のかけらを埋めるための横浜巡りがやはり必要となった。
『バード探しの旅紀行』氏の行動に倣って、まず
 ?神奈川県立図書館(紅葉ケ丘)を訪ねたのち、
 ?吉田橋(これは馬車道を再確認するため)
 ?横浜開港資料館(旧英国領事館=バード女史の立ち寄り先)
 ?サンポートホテル
 ?(これはついで)中華街
 という予定でもって、ハマに近い場所で行なわれた週末の所用を終えたあと、2枚のカルタ(地図)などを携えて、向かった。
 ?で澤氏の論文を複写し、
 ?では高速道路にとってかわった(元)派大岡川を覗き込み、
 ?では展示室を横目で見て、まず地階にある資料室にもぐりこみ、係りの方に旧居留地と現在住所が対照できる方法をお聞きし、明治39(1906)年12月発行の『土地寶典 横濱市街全圖』から山下町(旧居留地)を複写、収蔵していた澤氏の著作『横浜外国人居留地ホテル史』を書庫からとりだしていただいて、しばし、斜め読みしたのち、1階に戻り、地階に下がる前に確認しておいた古地図コーナーで、1873(明治6)年『横濱明細之全圖』および95(明治28)年の『新撰横濱全圖』を買い求めた。同館の方によれば、関東大震災により一時、街の容(かたち)が変わっているものの、震災前の地図であれば、現在とほぼ同じ(現在の街が震災前の容に復興したことになるのだろう)であるということであり、73年はオリエンタル・ホテル開業翌年、95年は4年後の99(明治32)年に居留地が廃止される手前の地図ということになる。また、複写した地図(土地寶典 横濱市街全圖)は居留地廃止後の山下町の様子であり、大震災前の容でもあることから、ほぼ現在の街容と変わらないと推測できよう。以上3点を加え、5枚のカルタでもって、オリエンタル・ホテルは、現在の山下町84番地、すなわちサンポートホテルの所在地であることも、ほぼ確認がとれたので、展示室(1階および2階)をめぐったあと、資料館をお暇し、そのまま、本町通りを直進し、?サンポートホテルを訪ねた。わざわざ行くこともない、電話で済むだろうとも思ったけれど、女史がいただろう気配を少しでも感じてみようかという気もちでもって、週末の宴席や宿泊客で忙しいのを承知でうかがった。わたくしのくだらない妄想にフロントの方が「私では分かりかねますので、後日、ご連絡差し上げます」と、丁寧に応対してくださった。このホテルには最近、岩盤浴が開業し、残念ながら女性専用なので、利用はかなわなかったけれど、お店の名前はピアソンという。ミセスピアソンは1863(文久3)年、居留地97番に日本で初めて洋裁店を開業した女性で、今は中華街入口にぽっかりと空いたスペースがコインパーキングとなっており、その面影も何もないが、ホテルサンポートの入口に凛とした婦人の像が顕彰碑を従えて、立ち、一瞬ありし日の居留地へと誘ってくれる想いに包まれる。(洋裁業発祥の碑)
 横浜から戻った翌日、叔母の訃報を受け、駆けつけたが、その先でサンポートホテルの方(かた)から電話をいただき、『97番にあったピアソン夫人の洋裁店を偲び、ホテルの前に記念碑が建てられましたが、実際の住所は確かにホテルの裏側にあたり、当ホテルは昔も現在も84でございます』とのお答えを頂戴した。やはり、オリエンタル・ホテルは居留地84番にあったようである。
 これが、わたくしのオリエンタル・ホテル探しの一切である。
 繰り返すが、以下はバード女史の英国領事館からオリエンタル・ホテルまでの光景である。(女史の記述)
『街路は狭いが、しっかりと舗装されており、よくできている歩道には縁石、溝がついている。ガス灯と外国商店がずらっと立ち並ぶ大通りを過ぎて・・・。』
 以上の文に、
『というのが、馬車道であろうか。』
 という一節を加えると、司馬遼太郎氏の《街道を行く》シリーズにある『横浜散歩』の一部となる。同作品の中で、司馬氏は女史を賞賛したうえで、その書かれている光景、そして、女史が人力車に乗って、通っている道こそ、馬車道ではないかと想像している。(横浜散歩、吉田橋のほとり)これもまた、余計ではあるけれど、続く「語学所跡」の章では横浜が灯台発祥の地ということにふれられていて、英国公使パークスのことを、やはり、よく書いていない、よほど、気に入らないのだろう。
 
 さて、また新たな迷いが生まれた。次は、女史の通った道を妄想してみなければ、と。(この項続く)

 ついでながら、中華街を訪ねてみた。↓写真は、その行きがけに見かけ、気になって、帰りに撮ったものである。営業中という札を信じて、恐る恐るドアを押すと、動いた!が、覗くと、内部は真っ暗、それ以上、進めなかった。中華街で呑んだ(食べた)折には泊まってみたい気もチョットする。
[こちらは今も現役(営業中)の中華街にある旅館オリエンタル]
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