横浜、オリエンタル・ホテル

 数ヶ月前、あるところで、『築地ホテル館』を日本初のホテルと書いた。迷ったが、時間もなく、そういうことにしておいた。その時は、(の、つもり)程度で勘弁していただいた。ただ、開業年を慶應四年としたが、同じ1868年でも、9月8日を境に明治元年へと遷っており、また、同地に外国人居留地が開かれたのが同年11月ということからすると、もしかしたら明治元年とすべきだったのかもしれない。しかし、諸資料をみても、表記はいずれ(慶應OR明治)もあって、はっきりしていない。(慶応四年とする例:かながわ資料室情報誌明治元年とする例:山口県立山口博物館、制度的には慶応四年は存在せず、一様に明治元年と称す)ただし、現在の清水建設の礎を築いたといわれる二代目清水喜助らによって着工されたのが慶応三年というのは、ほぼ定説のようである。日本橋本石町の『長崎屋』を国内初のホテルと位置づける場合もあろう。元禄年間(1688〜1704年)にはすでにあり、築地より、はるか2世紀も前のことであるから、時間軸という立ち位置からすれば、文句なし(国内初)なのであろう。ただし、コチラは主に外国人(長崎出島から将軍拝謁のため江戸に詣でたオランダ商人たち)が宿泊していたものの、建物自体は日本式旅館だったらしい。『解体新書』で著名な前野良沢杉田玄白も蘭人を目当て、いえ、彼らの後背にある蘭学事情を聞き出すために通っていたらしい。末席には?平賀源内の姿もある。このあたりのサワリは菊池寛の『蘭学事始』(←青空文庫)にもその様子が描かれている。長崎屋はもともと薬問屋であったので、前沢らが集まりやすい環境でもあったのだろうか。実は、それより(元禄)以前に薬舗長崎屋の文字がみられ、蘭学事始の始めのような様子もあるけれど、本日は横道にそれてしまうので、あらためて書いてみたいと思うが、これから書きたいと思う黒船以来の横浜と同様に、長崎・出島を端として、江戸・日本橋、築地にいたる「筋(ストーリー)」もクライナー氏の言葉を拝借すると、「江戸の中の欧州(人)」が見えてくる思いがする。ところで、築地ホテル館は宿泊客には江戸ホテルと呼ばれていたらしく、当時の風景絵にも《YEDO.T’SKE,GE》(江戸.ツ’キ,ヂ)とある。残念ながら江戸名物の大火で焼失してしまったものの、↑のような形で、今も、遺(のこ)っていることだけでも素的なことなのであろう。
 さて、『日本奥地紀行』に戻る。イザベラ・バード女史が驚くような富士山の絵を描かれていて、原注によると、《これは全く例外的な富士山の姿で、例外的な天候状態によるものである。ふだんの富士は、もっとがっしりと低く見えて、扇をさかさまにした形によく譬(たと)えられる》とある。残念ながら、そのFUJIYAMAの挿絵はお見せできないけれど、おそらく、富士山に懸かる特有の雲・・・とさか雲?富士山ボランティアセンターより)が山頂を覆い、さらに空に向かっていたのだろう。
[かわりに現代の富士山をどうぞ](裏富士です)
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 気象庁データ(もっとも江戸においては75=明治8年に気象観測が始まったばかりである)などを調べてみたけれども、当日の富士山上空の天候は分からないので、なんともいえないが、横浜あるいは江戸(東京)湾と富士山の間が晴れていたということは、フジヤマが見えることで察することができるであろう。ただ、富士山にその種の雲が懸かる翌日頃は雨というのが一般的で、もしかしたら、翌日(22日)のフジヤマは大荒れの天気だったのか、いわゆる走り梅雨の兆候があったのかもしれない。噴火か、とも思ったけれど、宝永4(1707)年以来ないらしいし、女史が逗留していたホテルを訪ねてきたサー・ハリー・スミス・パークス英国公使夫妻はたった11年前(1867=慶応3年)、富士山に登っているのだから、噴火による雲(噴煙)ということはないであろう。余計ではあるが、パークス夫人は外国人女性としては初めての富士登山者である。また、1832(天保3)年には女人禁制の中、女性として初めて登ったのが「高山たつ」さん、名前がよろしい。富士山が男女問わず登山できるようになったのは1872(明治5)年、たつさんは変装(男装)して、紛れこんだらしく、パークス夫人は・・・まぁ、特権ということなのだろうか。
 実際、当日のお日和は、女史の日記の中にも「穏やかな日和」と記されている、その1878(明治11)年5月21日、バード女史は18日間の航海を経て、江戸湾に入り、前記のフジヤマを眺めながら、開港間もない横浜港に接岸したシティ・オブ・トーキョー号を降り立つと、領事館へ挨拶に行ったのち、コノ静かなホテルで江戸へ旅立つまでの二晩を過ごした。それが標題のオリエンタル・ホテルである。このホテルはサー・ワイヴィル・トムソンの推薦によるものと記されている。ワイヴィル・トムソンの名は『神奈川県水産総合研究所メールマガジン』の中で、「1875(明治8)年にトムソンらが乗り込んだ、海洋調査のため世界周航中の英・海軍艦船チャレンジャー号が横浜沖に停泊」という記事に見られる。トムソンらは同年出航(港)しているので、女史は予めホテルの名を聞いていたのだろうか?(女史の横浜入港は78年)、トムソンは当時エディンバラ大学教授、女史の住まいも同市であったというつながりからなのかもしれない。ただし、今回の顛末で大変お世話になった『横浜居留地のフランス系ホテル』(澤 衛 氏)の中では領事館の紹介とあり、また、同氏著の『横浜外国人居留地ホテル史』(白桃書房)では領事館職員の紹介とも記されているので、わたくしのは単なる妄想でしかないのであろう。
 『・・・街路は狭いが、しっかりと舗装されており、よくできている歩道には縁石、溝がついている。ガス灯と外国商店がずらっと立ち並ぶ大通りを過ぎて、この静かなホテルにやってきた。この宿は、同じ船の乗客たちのあの鼻声のおしゃべりから逃れるため、サー・ワイヴィル・トムソンの推薦してくれたものである。あの人たちはみな、海岸通りの大旅館に行った。ここの主人はフランス人であるが、中国人に一切任せている。(以下略)』
 以上は女史が記している約130年前の横浜外国人居留地の一風景、すなわち、彼女が領事館からオリエンタル・ホテルへと向かう場面である。(日本奥地紀行:平凡社ライブラリーより引用)それでは、ホテルはどこに所在していたのか、そのことが、ずっと気になっていた。ネット検索などにより、ヒントはいくつかあった。もっとも、惹かれたのは『失われたホテル』という素的なサイトである。そこにオリエンタル・ホテルの名を見つけ、同時に、1910年代横浜地図(クック社発行)と現在の地図、つまりは2枚のカルタ(拙ブロ06年3月31日付)を見較べながら、首を傾げていた次第である。ついでながら、同サイトの東京の項には築地ホテル館が紹介されているほか、のちに帝国ホテルと合併するメトロポールホテルなども観られ、たいへん貴重な資料でもある。(メ・ホテルについてはヨーゼフ・クライナー氏の『江戸・東京の中のドイツ』=拙ブロ06年4月4日付にも登場する)同サイトによると、オリエンタル・ホテルまたは、オリエンタル・パレス・ホテルは明治6(1873)年以前に創業されており、経営者はフランス人とあり、バード女史の来日(78年)、「主人はフランス人」という表記にも一致している。(ここか?)というあてはないが、かすかな糸口として、居留地11番、今でいうと、山下町11番にあたる地点を眺めながら、引っかかっていることを思っていた。
 ?(失われたホテルでは)オリエンタル・ホテルおよびオリエンタル・パレス・ホテルが併記されていること
 ?女史はあの鼻声のおしゃべりを逃れるため、この静かなホテルに逗留していること
 ?あの(鼻声)乗客たちは皆、海岸通りの大旅館に行った
 以上をもってすると、上記サイトにあるオ・ホテルと女史の止宿したホテルは別ではないかという気分がわたくしの中に生まれていた。ちなみに居留地11番=山下町11番は今の山下公園通り、関東大震災で横浜が被害を受けた際に瓦礫でもって埋め立てられた山下公園は、女史が来横した当時は存在せず、通りは海に面しており、BUND(バンド)=海岸通りと呼ばれていたことから、?はさておき、?と?は11番に当たらないはずである。
 『あの人たちはみな、海岸通りの大旅館に行った』、したがって、女史はそこへは行って(泊まって)いない。
 では、一体、どこなのか。元に戻って、調べていると、先に記した澤(さわ)護(まもる)氏の論文に当たった。『横浜居留地のフランス系ホテル』は1988年敬愛大学経済学会によって刊行されている研究論集(第34号)に掲載されている。同論文の最後にも記述されているが、フランス系のみならずイギリスならびにドイツ系のホテルを網羅したのが『横浜外国人居留地ホテル史』である。(女史の)オリエンタル・ホテルは両著において、その所在した場所が、ほぼ、判明した。

 それが、横浜居留地84番である (この項続く)