火の国、通りすがりの記?(春日駅⇒熊本駅)

 江戸時代を中心として築きあげられた城郭と明治と時代が変わって、全国に鉄の網を拡げていった、のちの省線(以降、国鉄、JRへ)の波は、ある場所によっては住民との衝突の場面ともなっていたらしい。もちろん、わたくしは知らないが寫真が(たとえば真ん中で写った人は亡くなるなどの)忌み嫌われたように、鉄道の増勢期においても、同じような状態であったと、聞いている。できれば、すべての御城下を調べて、報告すべきではあるけれども、わたくしには、それほどの根性もなく、とりあえず、あげてみたが、全国には、確かにお城と駅(JRであるが)の距離が相当あるなぁという例がいくつもある。実は下記事例の中で弘前にはまだ訪れたことがないので、今回、初めて、電子地図上で、その距離を知ったが、他は、かつての訪問経験の中で、遠いなぁというところ(▲)と、そうでない(●)ものを思いつくままに、改めて、測ってみた。遠いと思うか近いかの、身勝手な尺度は1.5キロ(≒徒歩10〜15分、それ以上歩きたくないという目安)が分岐路となる。したがって、江戸城と東京駅というのは存外近いということが分かる。(距離は本丸を基本としているので、江戸城は各ナントカ門を基点とすれば、東京駅とは異常に近い)昔、地理か社会の授業(中学か高校?)で、駅と繁華街が離れている町(都市)はこれから伸びる可能性をもっているということを、半分睡眠状態で聞いていた記憶があるが、もう、それも時間切れ、拡大が望まれた昔と今、あるいは、鉄道中心の昔と車の今ということを思えば、「城・駅遠隔都市発展説」は成り立たないのであろう。あるいは、東京はやはり思い切った都市計画を企てたものだなぁと、お城の咽元に忌み嫌われていたはずの鉄道の切っ先(駅)をもってきた大胆さには感心させられる。
[お城と駅の距離]
弘前城(鷹岡城)〜弘前駅2キロ▲
仙台城青葉城)〜仙台駅2.5キロ▲
江戸(千代田)城〜東京駅1.4キロ●
金沢城(尾山城)〜金沢駅1.8キロ▲
岡崎城(龍城)〜岡崎駅3.5キロ▲
名古屋城金鯱城)〜名古屋駅2.3キロ▲
京都御所〜京都駅4.3キロ▲
二条城〜京都駅3.4キロ▲
伏見桃山城〜京都駅5.5キロ▲というか、ないしは、対象にすべきではないかも
大阪城(金城、錦城)〜大阪(梅田)3.3キロ▲
岡山城(烏城)〜岡山駅1.7キロ●
広島城(鯉城)〜広島駅1.5キロ●
福岡城舞鶴城)〜博多駅3.5キロ▲
熊本城(銀杏城)〜熊本駅2.5キロ▲
鹿児島城(鶴丸城)〜鹿児島中央駅西鹿児島駅)1.7キロ ●
鹿児島城〜鹿児島駅1.4キロ ●
※距離はあくまでも直線上
※( )内は別名(他にもあるけれど、代表的なモノ)
※お城でなく、繁華街と駅の距離という見方もあるが、ちょっと面倒ぅくさいので省略
 熊本駅も、お城まで歩くには、少し、躊躇がある。むしろ、ひとつ博多寄りの上(かみ)熊本駅の方がお城に近い(1.4キロ、●)。この「上熊本」は、前日(2・8)、黒川からのバスを降りて、玉名に向かう際、最初にホームに入ってきたリレーつばめ号に乗り、玉名でさえ、15分ほどの乗車で過ぎない距離なのに、熊本駅から乗り、ヨッコラショとする間もなく、『まもなく〜、カミ〜』と、アナウンスされる間近さである。わざわざ停まるほどの重要な駅であるのだろうかどうかは判断つきかねるけれども、お城に御用のある方はコチラで降りた方がよさそうである。さて、熊本駅周辺は今でも、どちらかといえば、サッパリと した繁華さで、とても九州第三の都市の玄関とは思えない寂しさも漂っている。熊本駅は1891(明治24)年7月1日「九州鉄道」門司〜熊本間開通に伴ない春日停車場として開いた、現在の熊本駅である。その4ヶ月後にヘルンさん(ラフカディオ・ハーン小泉八雲)は松江より熊本第五高等中学校に赴任するため、同駅に降りたっている(11月19日)。その際の感想を、ヘルンさんは「やや、がっくりさせられる。小屋や兵舎、そればかりか、でかい兵営の立ち並ぶ荒野と言うべきものだった」、と、記している。
熊本駅、やや、がっくりさせられる]
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 八雲が松江から熊本に移った理由は、家族を養うために不可欠な俸給の良さを求めて、は当然のこととしても、ほかに、曇よりとした松江と異なり、ここ(熊本)は暖かく、気候が良いからということがあったそうである、よほど、体調がすぐれなかったのだろう、10代の頃光を失った左目の分まで働いてきた右目をも患ったのだろうか(熊本には91〜94年、同年神戸に移り、新聞社に就職、翌年、過労により眼を患う)、96年に帰化し、小泉八雲となり、就いた東京帝大講師の身分を当時日本が罹っていた外国人排除という悪病の被害による心労も重なり、1904年に歿している。したがって、ヘルンさんは3年ほど、熊本に居したことになる。今回は、あくまでも、通りすがりの火の国であるので、予め、向かうべき場所は決めてあった。そこにさえ、という気持ちでもって、残した仕事のこともあ り、宿は川向こうの、やや辺鄙な場所を選び、夜、出かけることを阻むような条件を自分に課し、熊本駅からいったんバスでもってホテルまで向かい、荷物を預けると、ヘルンさんの住処であった「小泉八雲熊本旧居」へ(ただし、元の場所からの移転である)。熊本のご城下とそれ以外を分けるように流れる白川を渡っている新代継橋を上り、熊本のおへそである上通り・下通りのそば(安政町)に居はある。余談ではあるが、白川は途中南北に分かれて、南は白川(源流)、北は黒川となる。ただし、あの黒川温泉に行きつくわけではない。安政町というからには、その時代にできたのであろうか、ちなみにヘルンさんの安政時代は両親の離婚などもあった4〜9歳までにあたる。 拙ブロ「松江・・・あらゆる水をもつ町」(05年2月6日付)でヘルンさんと同じアイルランドつながりでENNYAさんの曲が流れていたと書いたけれど、熊本には迷わず彼女のMDを選択して、ずっと聴いていた、その前兆は、 「かんかん(函館)」 (06年2月4日付)を書いているときにあった。イザベラ・バード女史が著書「日本奥地紀行」の中で青函地域の気候をアーガイルシアにたとえており、ま た、他の箇所では、アイルランド 南部のチッペラリにふれられていた。(後日、書きます)わたくしには、さっぱりなので、いろいろと地図も含め、調べていたら、ドニゴールに行きついた、というようなことを同ブログで書いた。ENNYAさんはこのアイルランドでも最北端の地で生まれたということを以前、彼女自身の出演によるドキュメンタリードラマで知っていたので、ずっと南にあるチッペラリをなぞっているうちに、指がそちらの方に向いた。ヘルンさん⇒バード女史⇒エンヤさん、そのような架空のご縁を、函館にいる時から、妄想していた。そのままの気分でもって、火の国に通りすがった。
 熊本に戻ろう。九州第三の都市は次々と市勢を拡げ、今では石高を超える人口を抱えている(65万人)。空港周辺も含め、今後も版図は延びるのであろう。ついでに、ではあるが、水前寺公園にもうかがった。 そこまでが、せいぜいであった。市内にはまだまだ訪ねたい場所がある。ハンセン病研究所として建てられたリデル・ライト両女史記念館、徳富記念館(蘇峰、蘆花)、ヘルンさんの痕を辿るように五高、そして、ヘルンさんを追いはらうように帝大講師となる夏目漱石・内坪井旧居(ヘルンさんの旧居は後年、移転したもので、もとは手取本町にあった借家、 漱石が気に入っていたという旧居とは1キロほども離れていない。)ヘルンさんがたっての願いで神棚を造作したという西外坪井町掘端35番地(現・坪井1丁目9−8)の借家にいたっては漱石旧居とは300メートル、お城と駅との間遠さに比すれば、お隣ということであろう。帝大講師となったヘルンさんのお江戸での住居は市ヶ谷富久町21番地、漱石の生家、牛込馬場下横町(現在の喜久井町)にほど近い(1.5キロ)。 もちろん、現在とは違って、行動範囲(主に歩いての)が限られ、しかも文士・文化人の集まる面・地という事情を考慮するべきなのであろうが、ふたりが生涯面識がなかったという運命については、ヘルンさん旧居の資料にあった記録をもちだすことも、いまさら必要ないであろう。(ただ、本当に接点がなかったかどうかは、断定できないので、調べてみる必要があろう)通りすがりの街は、徒者(タダモノ)ではなかった、とても凡(およ)そ一日で回ることのできる浅さではないだろうし、反して、浅いことには自信のある、わたくしという取りあわせでは勝負にはならないのであろう。そのことを、十分に承知しながら、通りすがりを認めて、その通り、縋ったという言い訳は別として、重い課(架)題を両肩に載せられて、紐あるいは手拭をきつく絞って、頭に架せられたような、おかしな気分でもって、この地を去ってきた。帰り途、この辺りが練兵町というのかと、住居表示をぼんやり眺めていると、バスの右隣に市電が滑り込んできて、一瞬、並んで、行き先に「健軍町」とあるのを、これまた長目ながら、あぁ熊本というのは勇ましい街でもあるのなのだなぁと、過ぎてきた瀬の本峠や阿蘇連山を再び想いだしながら、ヘルンさんの『熊本精神・・・それは簡易、善良、素朴を愛し、日常生活において無用の贅沢と浪費を憎む精神である』というくだりとを小さな脳の中に並べてみて、いずれも、わたくしに備わっていない、ということだけを学んできたのであろうと、そのように思いがいたれば、熊本(春日)駅の無繁華さも、ただただ、稀少な事象である。あと数年もすれば、新幹線が通り、駅も改装されると聞いたが、できれば、今のままが良い、と、身勝手ながら切に望んでいる。熊本は、やはり、重い、通りすがるしか、今は術がない。