ドレミファソラシドれっしゃ

 都゛営線が東と西に相互乗り入れしていて、所用で乗りあわせたり、ホームで次の列車を待っている間に、何十分の一か、何百分の一かの確率で、その列車が駅を離れるときに発する音が、ずいぶんと気になっていた。まったく音感に関しても乏しいだけのわたくしなので、ドレミソラシド〜、なのかドレミファシドレ〜なのか、さっぱり分からないけれども、確かに、音階を奏でている列車があって、それも、よ〜く、考えてみると、西のほうから乗りいれている京急のものに限られている、というところまでたどりついていた。偶然とは、こういうことなのであろう、拙ブロに、ありがたくもトラバしてくださっているMAC'S GADGETさんのブログを拝見していたところ、そのことにふれられていた。(!)以下、引用させていただく。『金沢八景京急に乗り換え、品川に戻ろうかと思いましたが、やっぱり京急を味わいたいと考え、一旦京急久里浜に行き、快速特急で上ることに。現れた快速特急はラッキーにも2100系。最前部の席は取れませんでしたが、シーメンスのVVVF音「ドレミファソラシ〜」と快特のスピードを堪能出来ました。』、…試しに[シーメンスのドレミ]で検索してみると、1件ヒットし、次に、スとドの間にスペースを入れてみると、270件に当たった。しつこいけれども、シーメンスVVVFまでいくと、800件にぶつかる。(Google)そのひとつひとつをすべてみたわけではないけれど、いくつかをみた限りでは、わたくしが思っている都営線内のことに関していえば、京急、のようである。
 れっしゃの種類は、『京急の車両たち』によると、新1000形および2100形とある。以下、これも引用させていただく。 『 制御機器もドイツ・シーメンス社のインバーターを採用し発車起動音の「ドレミファソラシド〜」の音を響かせて疾走します。 』
 みさきぐち(三崎口)駅まで本線はじめ、羽田空港、川崎大師、逗子、浦賀方面に枝線をもっている京急は、わたくしが初めて乗った首都圏の私鉄(民鉄)でもあるが、もう、その日より、快特のごとく時は過ぎてしまっているけれど、その当時は確か三崎口はなく、また、初めて、中央という名の駅(横須賀中央駅)をみて、びっくりした記憶が今でも残っている。
 ふあん(不安)いっぱいの田舎高校生は、叔母を訪ねて、国鉄の鈍行でもって、大船までたどり着き、乗り換えて、横須賀まで。あとで聞くと、そして、同じ市内に住む叔父を訪ねる際に、本当はコッチの方が近いけどと言って、わたくしの方向音痴を知っていたのだろうか、分かりやすい国鉄だけのルートでもって、わざわざ遠い国鉄駅まで迎えに来てくださったのであるけれど、その後は京急線を使った。以来、ほとんど乗ることのなかったKQが突然、ドレミをもって、わたくしに近づいてきた。
 そのことが、ずっと気になっていて、都営、あるいは京成、そして京急に近づくたびに、ドレミの列車を待ち続けていたが、近頃、羽田へ行くことが多いのに、一度も、その想いを果たしていない。ところで、横須賀駅というのは今はどうなのであろうか、今はもうこの世にはいないけれど、横須賀の祖母が、ここは階段がなくて年寄りには良いわ、と言っていたことを思い出した。高松(ただし引き込み)、青森(ここも引込み線)、函館もそうであるし、宇和島などはまさに終着駅の雰囲気があろう。ただ、横須賀駅は終着駅ではなく、その先に久里浜が控えている、《横須賀駅 プラットフォーム》で検索すると、その答えが分かった。なるほど。また、単に終着駅であるだけでは、このフラットなプラットフォームにはならないのであろう。長崎駅は違っていたような記憶がある、確かに長崎は坂の町、狭い駅構内だけでも相応の起伏があるからなのだろうと勝手に想像していたが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、昭和初期から87年まで、その先にも駅があって、長崎駅は終着でなかったことが判明した。ただし、長崎の駅の詳細については、もう一度、訪ねてみないと、わたくしの記憶だけでは、どうにもならない。…少し、鉄い内容に傾いているが、続ける。
 ラインゴルトは87年に廃止になっている。と、言い切れるのは、最後の運行に乗りあわせているから、確かケルンであったと思うが、日本で購入していったトマスクックの時刻表に、廃止になったはずのラインゴルトの運行ダイヤが掲載されており、特別列車というような表記もあったように記憶している。わたくしはその次の列車に乗る予定でいたが、ゴルト号がプラットフォームに滑り込んできて、発車しようという間際になって、ひょいと(かなり確信犯的に)乗ってしまった。と、列車内はもう、ドイツの鉄な老若男女で沸きかえっており、その列車が、いってみれば、さよならゴルト号記念運行のようなものであったらしく、皆、特別のツアー代金を支払って、乗っている。目ざとい車掌さんが、当たり前のことではあるが、あなた(わたくし)には乗る権利がないと、即座に降りるようにと、命じた。もちろん、その場で降りることは不可能なので、次の停車駅で、ということなのだろう。(仕方ないけれど、少しだけでも乗ることが叶って良かった)とあきらめかけていたところ、なにやら乗客のおひとりが車掌さんと問答しており、その結果、わたくしは、めでたく臨時のツアー客のひとりとして、そのまま乗ることが許された。バー車両をのぞくと、ビール片手に陽気に、最後のゴルト号を楽しむ人たちが、あふれそうなゴルトグッズに囲まれながら、あなたも呑みなさいよという雰囲気で充満していた。ドイツというのは主要の駅には必ず動く鉄道模型が展示配置されていて、それを男の子が、あるいは昔・男の子が喰い入るように見つめている光景にぶつかる。アウトバーンという世界屈指の自動車専用道を造ったくせに、根っからの道好き国民性をもっているのは、そういう少年時代の体験が生きているのだろう。
 シーメンスもそういう風土のもとで、ドイツに生まれた(1847年)からこそ、ドレミ列車のような楽しい発想につながっているのだろう。[シーメンスの歴史]
 どうでもよい話であるが、どうしても書いておきたかった。ただ、それだけのことである。