岩木(いわき)

 田口昌樹氏著の『菅江真澄』(88年、秋田文化出版社)は全国的にはあまり光があてられることのない真澄について、ほぼ完成形に近いと想像できるほど、細かに、彼の足跡を追い、検証を行なっている希(貴)書である。読み始めて、ほどない箇所に「田村根ッ子」という段がある。本季(今冬)はとても寒く、雪深く、北の国では除雪もたいへんであるととともに、暖をとるにも、それ相応の手間賃がかかり、なおいっそう、たいへんだと、先月半ばに、訪れた秋田、青森、宮城の各地を思い起こしながら、興味深く読んでいる。根ッ子とは今でいう泥炭あるいは亜炭のことのようで、石炭一歩手前ということである。同著の中にも紹介されているが、真澄の生地であろう三河尾張周辺では標題にある「岩木」といっていたらしい。初めてそれを見た人たちは岩(石)のような、あるいは木のようなモノに思えたのであろう。石炭でも、木炭でもない、その中間のような、まさにどちらからみても、二番手あるいは下級を意味する「亜」(ちょぃ)だったのであろう。
 尾張の岩木については、日本野鳥の会愛知県支部平和公園探鳥会の「平和公園通信」の中に以下のような記述を見つけた。紹介しておく。
《亜炭の続き…明治30年頃から平和公園周辺で亜炭が採掘されるようになり、当時の『高針音頭』に「世帯を持つなら高針にござれドウジャ、土の下までヤーレサーノ金が出る」とも歌われました。その当時は亜炭のことを「岩木」といい、石炭と木のあいのこで、その火力は石炭よりも弱く、臭いが強いが火持ちがよいことで重宝された。この亜炭の炭坑は、長久手から高針が主流で、昭和30年頃まで猪高村(当時の名称)だけでも6つあり、高針の人口の約3割の人が炭坑関係者であったという。その後昭和34年頃から石油が登場し、急速にその姿が消えてしまった。後にこの炭坑が安普請であったので陥没事故が絶えなかった。(参考文献/猪高村物語−名東区の今昔−/小林元著/1988年12月15日刊)》
 また、雲丹(うに、宇邇)と呼ぶ地方もあるらしい、以下、真澄の記述によると、《この根ッ子を掘るには、一番掘は石雲丹のようにその色が黒い。それを焚いて灰になるとその色は白い。二番掘りは綿うにのように品質が劣り、その色も赤い。これを焚くと灰はねずみ色である。三番掘りは更に劣る。・・・》とあり、海底近くに鎮座している海栗(海胆)を想起できるようでもあるし、かなり強引だけれども雲母(きらら)を連想しなくもない。田村の根ッ子(田村灰)は極上品で、たいそう評判がよく、貢物や土産にもなったという。掘り(採り)すぎて、二番、三番掘りが主流になっており、それすら田村ッ子(地の衆)以外は掘ることが禁じられた(正徳4年=1714年、真澄がみちのくにへ旅立った70年ほど前の話)という記述もみられる。ところで、岩木(いわき)は磐城(常磐)に通じると考えても差し支えないだろうし、真澄も仰ぎ見たであろう津軽の名峰「岩木山」も、もしかしたら、イワキなのだろうかと、あてもない想いを寄せている。調べてみたが、今の時点では、岩木山と炭鉱を関連づけるような記述はみつかっていないけれども、妄想しているだけで楽しい。(真澄は1798、寛政10年5月に御山に登っている。「菅江真澄研究会・年譜」より)上記、尾張の場合もそうであるように、田村根ッ子も昭和30年代にはプロパンや灯油の類にその役目を譲ったと、田口氏が補遺している。
 繰り返しになるけれども、本冬は厳しく寒く、新潟では長く停電も生じ、下手をすれば命に関わる思いもされた。仮に東京が厳寒の状況を迎え、頼みの電力、ガスなどの熱源を断たれたとしたら、わたくしたちは、燃えるものを求めて、街を彷徨うのかもしれない。しかし、今の東京に燃えるものは限られており、木造の住宅が姿を消しつつある中で、探すのが厄介かもしれない。誤解を招くのかもしれないけれど、下町にはかろうじて燃料となりそうな家並みが残っているものの、六本木あたりで、あるいは丸の内あたりで孤立した場合、何を燃やして、暖とするのだろうか、余計なことであるけれど、そのような杞憂が生まれた。わたくしも、今は地球温暖化だから、寒くなることはありえない、という予断でもって、油断しているのかもしれないけれど、唐突に厳寒が首都を襲ってきた場合に備えて、根ッ子を確保する手当てでもしておこうかと、つまらぬことを考えている。

 あさ鳥ほほほ ゆう鳥ほほほ
 長者どのの囲地(かくち)には
 鳥もないかくちだ
 やいほい はたはた
(真澄の記録より/大館・大滝の鳥追い唄)