暗闇で饅頭を喰う(ある神秘論)

 大仰ではあるけれども、半年ほど、ことあるごとに、標題について思いを凝らしていた。原文(前段)は6月に書き始めたのであるが、多少、書き改めてみた。
 神秘…、まるで暗闇で饅頭を喰う、とは、夏目漱石三四郎』の一節にある言葉である。(青空文庫より)
《それから谷中(やなか)へ出て、根津(ねづ)を回って、夕方に本郷の下宿へ帰った。三四郎は近来にない気楽な半日を暮らしたように感じた。
 翌日学校へ出てみると与次郎がいない。昼から来るかと思ったが来ない。図書館へもはいったがやっぱり見当らなかった。五時から六時まで純文科共通の講義がある。三四郎はこれへ出た。筆記するには暗すぎる。電燈がつくには早すぎる。細長い窓の外に見える大きな欅(けやき)の枝の奥が、次第に黒くなる時分だから、部屋(へや)の中は講師の顔も聴講生の顔も等しくぼんやりしている。したがって暗闇(くらやみ)で饅頭(まんじゅう)を食うように、なんとなく神秘的である。三四郎は講義がわからないところが妙だと思った。頬杖(ほおづえ)を突いて聞いていると、神経がにぶくなって、気が遠くなる。これでこそ講義の価値があるような心持ちがする。ところへ電燈がぱっとついて、万事がやや明瞭(めいりょう)になった。すると急に下宿へ帰って飯が食いたくなった。先生もみんなの心を察して、いいかげんに講義を切り上げてくれた。三四郎は早足で追分(おいわけ)まで帰ってくる。》
 わたくしは、辛党であるけれども、甘党でもある。饅頭、羊羹の類でもって、十分、お酒を堪能できる。実は、5/23付のブログで三四郎を読み込み、初めて気づいた。もちろん、試してみた。が、才の違いというのか、どうやっても、それが神秘とは感じられなかった。もっとも、その時はあいにく饅頭の類がなく、菓子パンで代用していたせいもあるのだろう。
(ここから本日)
 で、今回、改めて、饅頭を購入し、再度試した。昨夜、所用があって出かけた、ひさしぶりの雑繁な街の、渡嘉敷島の「まめや」さんも来られたという百貨店の地下にて、求めた。ふんぱつした。京都南禅寺草川町『京都菓匠 清閑院』の薄皮饅頭である(1ケ60円ちょっと)。早速、暗闇で食べてみたが、さっぱり分からない。
[暗闇の饅頭]※フラッシュ撮影
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 それでも、甘くて(かつ、ほのかに酒っぽくて、酒粕がはいっている)、美味しいというのは暗くても分かるが、シンピはとうとう分からなかった。この感覚というのは、もちろん才の関わる部分がもっとも大きいのだろうけれど、いくつ食べても体感できないでいる。まだ、いくつか残っているので、寝る前にでも、再度食べてみようかと思っている。
 ところで、森鴎外は饅頭を温かいご飯の上にのせて、加えて、お茶漬けでもって食べるのが大好きと、羊羹で有名であるが、饅頭は製造・販売していないはずの虎屋のサイトにあった。↑夏目翁の暗闇実験はまったくの失敗、というよりも、わたくしの才のなさを上塗りしたようなものであるので、ここは森翁の場合も試してみることにした。鴎外は四つ割にして、その一片を、ということであるが(同サイト)、わたくしが買ってきたモノは、もともと小ぶりであったので1/2としたが、もう、ほとんど、無いに近い状態になっている。(↓写真)お茶は煎茶を使ってみた。
[饅頭茶漬け]
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 …感想として、意外に旨しいということは、決してない。そもそも、わたくしの小さな脳感覚の中にはない味覚である。ただ、ひとつだけ、失敗したと思うことがあった。それは、饅頭の選択である。今回は薄皮を採用したが、本来は、厚皮を用いれば、良かったのではという反省がわたくしの中にある。皮が厚ければ、その部分がお茶に程よく溶けて(ふやけて)、ちょうど、クルトンか、お麩のような具合になって、もう少し、異なった食感を味わえたのかもしれない。とはいえ、もう、厚皮を買ってまで再試行するつもりはないけれど。甲州にホウトウという饂飩のようなキシメンのような麺があるが、そのメニューのひとつに「小豆(あずき)ホウトウ」というのがあって、頼んだことがある。でてきたのはゼンザイ(お汁粉)状態の椀の中にホウトウがおモチがわりに入っている一品であった。これは、「意外に」美味しかったという記憶がある。あるいは、小さいころ、ご飯にお砂糖、または、(お砂糖入りの)きな粉をかけて食べていたこともある。そういうことから考えると、饅頭茶漬けを主食だと思って、面と向かって食べるのではなく、ホウトウや砂糖あるいはきな粉ご飯と同じように、一種の甘味食、スィーツと考えていさえすれば、やはり、もう少し、異なった、もしかしたら、おいしぃ〜、と思えたのかもしれない。とはいえ、もう、二度と試す気にはならないけれど。
 食べてみて、暗闇で饅頭の意味がおぼろげながらもつかめたような気になっている。とはいえ、暗闇の饅頭も、茶漬けの饅頭も、なんだか、はっきりしないけれども、心外な心もちが芽生えてきて、それが、シンピという、世界へ引きづり込んでくれているようで、ものごとは、はっきりしない方がヨロシイという、わたくしにとっては、聞き心地の良いことを、両巨匠は仰言っているのだろうか程度の稚拙な感想でしかないけれど。
やはり、
[わたくしには、さっぱり、ワカラナイ]
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