溺れる者…オブローモフとは

 標題の一部『オブローモフ』とは何者か、岩波文庫版、米川正夫氏訳による同書(全3巻、品切重版未定とある)の説明文を引用すると、《オブローモフは優しい純真な魂と非凡な才能をもっているが、実際的意力の欠けた青年で遊惰と無為の中に空しい日を送る。熱情的な少女オリガの純な愛に対してさえ、能動的な反応を示すことができぬほど行動の能力を封鎖されている。ロシア文学における無用者の典型をみごとに描ききったゴンチャーロフ(1812‐1891)の代表作》とある。また、同書を扱った評論として名高い『オブローモフ主義とは何か?』(ドブロリューボフ著、金子幸彦氏訳、やはり岩波文庫、在庫はあるらしい)では《オブローモフ。教養のある貴族インテリゲンツィア。高い理想を口にしながら自らは行動せず、無関心、そして怠惰。ゴンチャーロフの小説「オブローモフ」をとりあげて当時のインテリに共通の気質をえぐり出す。農民革命による社会主義社会をもたらすべく精力的に文筆活動を行なったドブロリューボフ(1836‐1861)の代表的文芸評論。》と彼(オブローモフ)を解説している。
 まことに大雑把にいうと、19世紀における貴族の出であり、その当時としては教養も知識もある御仁だけれども、「言うだけ」、すなわち不言実行の真反対の位置にいる、有言不実行のモデル(代名詞)として扱われている。初めて、この書を読んだ時、ああ、なんて、うらやましいことか、と正直思った。ただし、それはみかけのこと、内面をのぞきみると、複雑な個としての特質ととりまく社会背景という状況の中で、単なるオバカさんでは済まされない魅力をもった人物でもあり、それゆえに、うらやましい、と思ったわけでもある。書かれたのは1859年、今から1世紀半ほど前のことである。多少、ロシヤの歴史にふれておく必要があろう。ロマーノフ朝が成立したのが1613年、そこを基点として数えると、約2世紀半後のことである。ちなみに、(王朝発足の)10年程前には徳川幕府ができている。1861年に農奴解放がある(実際の開放はそれより数年先)が、その背景には王朝の凋落、直接的にはクリミア戦争(53〜56年)の敗北があるといわれている。この頃、ロシヤはある段階まで、社会そのものが疲弊しており、特に貴族中心の搾取社会の持続が難しい状態に陥っている。貴族だけではない、役人、市井の人々、もしかしたら、農奴まで(?)を含めて、下降線(堕落)の一途を辿っていたことは、ロシヤ文学の始祖であるゴーゴリの数々の名・作品に描かれている(ただし、ゴ氏はそのことを書きたかったわけではないと、個人的には思っている)。…というような大雑把な歴史説明をふまえて、その社会に生まれたのがオブローモフ≒オボレルモノ(溺れる者)と呼んでみたのが標題の意味である。ツルゲーネフの「ルーヂン」(1856年)もまた、彼(オブローモフ)の近似値である。流(りゅう)人と違訳しておこう。うき草と名訳をしたのが二葉亭四迷である。残念ながら、訳本を読んだことはなく、書店でも探してみたが、主要な版元目録にもなかった。いつも、お世話になっている青空文庫にもなく、今のところ、八方ふさがりである。ちなみに、よく似た作題で、やはり四迷の作である「浮雲」という代表作があるが、青空では作業中ということ、手持ちの文庫版を眺めているが、内海文三にそれ(浮き草あるいはルーヂン)を彷彿させる部分も見られる。オブローモフやルーヂンのような人物を経て、やがて、ロシヤ社会は変化への機運が高まり、05年そして、17年の10月革命となる。ただし、これもまた、両者(オやルと、革命)を直接的に結びつける必要はまったくないと考えている。
 NEET(Not in Employment, Education or Training=ニート)という言葉が最近踊っている。意味は、「職業に就かず、学校・教育機関に所属にもせず、かつ就労に向けた具体的な動きをしていない若者」だそうである。若者というには幅広で15〜34歳、パラサイトという言葉もはやった。まさに、この世代と重なり合うのも偶然だけではないのだろうけれど、そんな些細な分析をしても致し方がない。一説には70万とも100万ともいわれている。で、厚生労働省がこれらニートの就業支援をするというような記事も見かけたけれど、その前提には「ニートで在る」ことは悪いという条件でもあるのだろうか。でなければ、自分たち(コウローショーのお役人はじめ、その他もろもろ)と異なったのっぺらぼうでない(拙ブロ05年6月7日付『公らはタイプ・ライターにすぎず』)ニートたちを己れたちの領域に引きずりこんで、積み移しによる「変化のない」歴史の繰り返しの中に埋没させようとしているのだろう。わたくしの中では、オブローモフもルーヂンも、そしてニートも、それはそれで良いのではないかというのが、正直な気持ちであり、何度読み返しても、ゴンチャーロフも、ツルゲーネフも、オブローモフやルーヂンを支援しようなどという莫迦げた所業にはでていないように思う。それはそれで、お好きなようにどうぞという、まことにもって、自然な形でもって、対面しているように感じている。それを浮き草と題じた四迷も同様である。溺れる者は藁をもつかむというが、彼らにはつかむ藁など存在せず、ただただ、自分流に生きている(いた)、ただ、それだけのことで良いのではないか、オブローモフを初めて読んで以来、わたくしにも、ただ、ひたすら浮いている草であることにプラスでもマイナスでもない、上記「それはそれで」に近い思いしかもてない。むしろ、わたくしには彼らより、N’NEET《職業に就かず、学校・教育機関に所属にもせず、かつ就労に向けた具体的な動きをしていない若者→ヒト}でない》の方がよほど、それはそれではすまない感情をもつことが多いような気がする。もちろん、余計なお世話の浮き語りであり、だからナニ?ということは何もない。あるいは、わたくしが徴税者側ではないからだという明確な事実もあるから、そう思うのかもしれない。
 それはそれで、・・・。
ニートの就業支援に関する記事]
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/kyousei/geneki/20050928ik08.htm