那覇中心徒歩記?〜農連市場

 市場の一筋に大平通りというのがあって、そこにある食堂には何度か通った。不思議と女性客が多く、だから、行っていたわけではないけれども、店の前に立て看板があって、今日のランチというお品書きがある。例えば、わたくしの行った日のメニューは、天丼(コッチのとは少し異なるが)、テビチ(汁または煮込み)、パパイアのヨーグルト和え・・・だった。市場には毎日行っていたので、中には入らないものの、この食堂のランチメニューだけは、都度確認を怠らなかった。鯖味噌煮(これは珍しいメニュー)+ソーミン汁(ソーメンの入ったお吸い物)…、うな丼+おかず…、(他はもう忘れたが)。ランチだけれども、いつなんどき注文しても、材料がありさえすれば、食べることができる〜他の食堂でもほぼ同じようであり、那覇式ランチの常識なのかもしれない。その大平通りから開南せせらぎ通りを渡った側に農連市場はある。この名前は従前に知っていたが、それがどこにあるかまでではなかった。社団法人那覇市観光協会発行のナハナビ2005というリーフレットには詳しく那覇中心情報が掲載されていて、各所で無償配布されているが、以前頂いたモノは、もうとっくに沖縄を離れているので、手元にはなかったが、さいわい、食堂にも置いてあって、その中で、農連の位置を確認して、早速向かおうと思った。あいにく、その日は日曜日であるので、休みではという気持ちはあったものの、食堂からの距離は近く、誰もいない、そして、何も売っていない市場を訪ねるのも、歩くのも良いだろうと、進んだ。当然ではあるが、誰もいない、何もない市場には思いのほか昨日までの余熱、雰囲気が残っているようで、ここまで来て良かったと思うと同時に、明日もう一度訪ねて、直(じか)熱にあたろうと、戻った。ところが、市場というのはおおむね朝が中心活動帯であり、わたくしのような、いい加減モノには冷たい場所であるから、翌昼、行った頃には、すっかり、昨日と同じ気配、ただ、先ほどまで開かれていたようなので、余熱感はやや強く感じられる。まだ、何人かが残っていらして、帰り支度をしていたり、中には、できるだけ荷を軽くしたいのであろう、我慢強く売っていらっしゃる方もいらした。他の市場でも見かけられるが、まーみなー(もやし)のヒゲを一筋一筋、丹念に剥いでいる方もいらした。しばらく、歩いていると、朝駅食堂という看板を見つけ、中に入ると、こあがりに買物帰りの袋をいくつも周りに置いた女性が一人、二つあるテーブル席は空いており、奥の卓には野菜煮(炊き)と天ぷらを乗せたお皿がラップで覆われている。わたくしは、ビールでもという気持ちで軽く入ったけれども、メニューを見回している間におかゆというのを見つけ、頼んでみると、厨房の方(女性です)が二つあるご飯釜の一方を覗き込んで、最後の一杯をこそぎ取るように小椀に落とし込んで、もってきてくださった。すでに保温をやめたあとなのか、それとも、もともとそうなのか冷たいおかゆは、沖縄の気候に妙に合い、美味しく頂いた。ついでに、向こうの卓にある野菜を頼んだら、天ぷらもついてきて、これが、太平通りの食堂メニューにもあった『おかず』というメニューなのかと思いながら、これも頂いた。途中で顔なじみらしい女性客二人が入ってきて、一人はおかずのある卓へ、もう他方は、わたくしの前に座った。ひととおり抱えてきた荷物を脇に置くと、立ち上がり、厨房に近づいて、さきほど、おかゆを盛ってくれたのとは別(わたくしから見て右側)の釜をあけ、小椀に自分ですっすっと、ご飯を盛りつけ、再び、席へ戻ってきて、私は牛汁ね、ワタシは・・・と、注文していた。まるで飯場だなぁと、イチバもハンバも働く現場そのもの、職住接近という言葉を耳にするけれども、両“バ”では職食接近が基本である。第一牧志公設市場2階にある食堂も、もともとは、そこで働く人たちのモノであったのだろう。東京築地もそうだろうし、函館や他のイチバも、おおかた、そのはずである。スローフードというのも耳に入る。北イタリアの片田舎で生まれたこの言葉(活動)は、今では少なくなりつつある農作業の合間に自宅に戻って食を摂るのが当たり前の時代が日本にもあったことを想い起こすと、その再現、ゆり戻しである(にしかすぎない)ともいえる。ただし、イチバにおける職食には「住」は存在しない(ハンバや農作業には、それがある)から、オフィス街と周辺のランチ屋さんという関係に近いのかもしれないが、その雰囲気はまるで異なっている。
 イチバが見直されているのは、そこでしか買えないという購買欲をそそる部分や、イチバ自体の活気あるいは売る人と買う人のふれあいに心地よさを感じる部分も大きいけれども、「ま、そんなにせかせかしないで、のんびりやりましょう」という本来ヒトが有しているはずのだじょう(堕状)的な発散場所として受け容れられているような気がしてならない。そのようなゆったり(すろ〜な)とした味わいがイチバにはあるから、ヒトはイチバに向かうのだろうか(都会の商業ビルやショッピングセンターでは感じることがむずかしいと、思うけれども)。あるいはイチバには農産、水産、林産の品々が並んでいるけれども、何を買って帰ろうかと、あちこち、迷い、さまよっているうちに、これら産品から発せられている不思議な力を浴びて、元気になっているのかもしれない、「イチバ浴」とでもいうのだろうか、ヒトがイチバに惹かれる一因がそういうことにあるのかもしれない。加えて、人産とでもいうのか、繰り返しになるけれども、人と人のふれあいがイチバを包んでいて、帰る頃には思わぬ買物もしてしまったという小さな後悔と来てよかったという大きな充足感でもって、たくさん詰った買物袋同様に、心を膨らませているから、足どりもさほど重くは感じない、イチバの一光景として、わたくしが勝手に想像しているだけのことである、なんといっても、そのイチバが開いている時間を知らないのだから。一度ぐらいは早起きして、イチバをめざしてみようか?