レキオスそして仲秋(那覇周辺印象雑記?)

 偶然ではあったが、那覇滞在中に仲(中)秋を迎え、9月15日の日中に訪ねた首里城の案内板で、これを祝う(愛でる)宴があると知った。実は前回の那覇滞在で首里城をめざしていたが、ユイレール(モノレール)の首里駅を降りたところで、スコールに見舞われ、行くことなく、駅前のそば屋で一服(杯)して、引き返していた。その後ろ髪の思いを解消するため、改めて訪れた城郭は1992(平成4)年に開園した。首里城公式HPによると、4回蘇えったと記されており、「首里城の歴史は復元の歴史」とも。15世紀、17世紀、18世紀そして、先の沖縄戦による焼失。琉球王国は1429年に初代尚巴志(しょうはし)が建国して以来450年間続いたが、琉球処分により、全てを奪われる。(わたくしどもは廃藩置県と教えられた)宴は16〜18日の三日間開かれ、わたくしは最終日にうかがった。始まる30分ほど前に着くよう、ユイレールに乗って、車窓を眺めていると、儀保(ぎぼ)駅辺りから急に視界が高く、広くなり、街が徐々に低く見える。ひとつ先の終点首里駅で降り、分かりづらい十数分の道のりをトボトボと歩くと、亀や鯉の泳ぎ場となっている池(龍潭:りゅうたん)の背後にある小学校の裏手にどっかとお城が控えている。駅からは緩やかな坂道で、徐々に高度を上げ、お城の最高地点は標高130メートル程度、那覇の最高地点(首里台地付近)が160メートルであるので、ほとんど市内はもとより沖縄南部一円がのぞき見える位置にある。実際、三日前、帰る際に、博物館脇を曲がって、儀保駅に向かって歩いてみると、急な坂道にでくわし、さいわい、下る一方だったけれども、お城付近の高さがうかがいしれた。お城の手前にある三日前のお昼に訪ねた時、閉まっていたタコ焼き屋さんに寄り、ワンパック買い求め、首里城ビジターロビーの売店オリオンビールと、島トウガラシ入りのチーズかまぼこを加えて、宴の晩餐がわりにして、開演前に、西(イリ)のアザナと呼ばれる物見(展望)台に昇ってみた。ちょうど夕暮れで、ブルーモーメントに浸りながら、その後、暗さを増して、島々が影となって、一体となった空と海のキャンバス上を立体的に彫られていく、慶良間(けらま)諸島である。何十人もの人たちが、同じ思いで、眺めていた。後日報によると、三日間の観衆は1万3千人、わたくしが訪ねた夕だけでも4千人いたことになる。初日は国宝お三方による独唱及び太鼓の競演があったけれど、行くことはできなかったが、最終日も初日同様、今年3回目になる同宴で初めて正殿前舞台での舞いが行なわれることになっていた。前半の下之御庭舞台に集まった多くの観客が休憩をはさんで、一斉に正殿内に移動するというのも驚かされたが、後半が始まる頃には、すっかり日も暮れて、正殿正面上方に仲秋の名月が浮かんで、宴も最高潮を迎えようとしていたが、幽玄とした気持ちに浸っている客(わたくしだけかもしれないが)が、正殿の満月でより舞い上がっている最中に、今年の国王・王妃お披露目会と称して、国王は○○市在住の▲※■さん…という現実的なアナウンス及び進行にすっかり褪めて、予定していたとはいうものの、8時半ごろにはお暇して、牧志に戻ると、テンブス館とその隣にある希望ヶ丘公園を利用した「満月夜会」に駆け込みでお邪魔をした。こちらは街の有志が集まって、若手アーチストを中心としたライブコンサート、入場料千円と引き換えにドリンク・スープ(わたくしは泡盛の水割り)を頂いて、公園の芝生に寝転びながら、2グループのみしか聴けなかったけれど、ステージの真上にお顔を出しているお月様を見ながら、ゆっくりさせていただいた。残念ながら、お客さんは少なかったが、演奏・歌唱の合間にも、ステージ前でこどもが肘あてがわりの空気ボールを蹴ったり、転がしたりして、興じているのは、ご愛嬌ということか。今月も17日に予定されている。もう東京は寒いと感じられるが、向こうは、街の掲示板に10月15日、夕涼みの会なんてのが貼ってあって、季節感の違いを確かに感じる。今月3・4日と、とんぼ帰りした時も暑かったから、やはり、那覇、沖縄はまだ、夏なのであろう。
 前段で首里那覇市内でも高地にあると書いたが、その地下には豊かな水が伏せているとも聞いた。もともと、泡盛は王家の重要な輸出品であり、首里以外では製造も禁じられていたそうである。今でも何軒か蔵元がある。お城に入る第一の正門「歓会(かいかん)門」をくぐると、ほどなく、石段の右手に、「龍樋(りゅうひ)」という龍の口から湧水が出ている場所がある。わたくしが、のぞき見たあとに、地元の女性が換わりに泉のもとにしゃがみこみ、手を合わせていた。信仰あるいは祈願の場所でもあるのだろう(あとで調べると、御願=うがん、とあった)。かつては王家の飲料用にも使われていたそうであり、その左手にあるのが、「瑞泉(ずいせん)門」、同名の泡盛も有名である。首里の城下町、崎山町で今も造りつづけている。さて、「漏刻(ろうこく)門」は瑞泉門をさらに昇った場所にあり、石段(塀)と石段(塀)の上に櫓が渡され、置かれている、この中に漏刻、すなわち水時計が納まっていたらしい。伏流水が豊富だからこその、お城の造りなのかもしれないが、往時の王家の隆盛ぶりが水をふんだんに使えるという点からも察することができる。首里はスイ、シュイともいうらしいが、これも、何とも、水っぽくて(水を連想させて)心地良い。「宮古には川はなくとも、多良川(たらがわ=島産の泡盛)がある」というコマーシャルがあった、山羊屋さんのご常連で宮古出身の方にそういう風に教わったが、島というのは一般的には大きな河川や森林(山)がなく、保水力に乏しいため、水が少ないというイメージがあるが、首里といい、宮古といい、地下河川(伏水)が多いというのが、何よりもの恵みとなっているのだろう。そうでなければ、レキオス(requios)といわれ、西方から蓬莱の国とされた首里の隆盛もなかったかもしれないし、そのレキオス・スイ(首里)とは、また異なった伝統、文化、言語をもつ宮古が存すること自体も難しいことであったのだろう。レキオスという文言は16世紀初頭にトメ・ピレス(ベレス?)によって書かれた『東方諸国記』に出てくるらしいが、西方人が風に乗って、遠く、東方にある蓬莱を求めたすえ、琉球を知ったのかもしれない。また、徐福も、もしかしたら琉球に渡ったのではという考えも否定はできないであろう。しかし、ここには、より素的な伝来の物がたりがあることを知った。(続く)
首里城正殿、宴の模様]
http://www.shurijo.com/
[満月夜会のポスター]
http://waraba.at.infoseek.co.jp/information-okinawa-live.html
[コッチも]http://www.be-jam.com/moon.html