海の道、海への道

 其処は、名古屋から特急で3時間、大阪からでは4時間を要する。地図帳を見る限りではそうは思えないのであるが、実際にはかかってしまう。名古屋から3時間は東京へ行って、そのまま、引き返してくることのできる時間距離、大阪からの4時間は、博多でラーメンを忙しなく、ごちそうになって、で、広島でお好み焼きを食べている頃である。それほど、間遠さをもつ地であり、かつ「新宮」というのは実に重いテーマである。其処は、中上健次という、わたくしには、ほとんど経験のない大きな作家がいる。「岬」は『彼』という若い、そして何も知らない一人の男の話でしかない、というと叱られるかもしれないけれど、あの頃、どこにでもあったことだと、そういう印象がある。ただし、やはり、重い。また、歴史上、例えば、乙巳(いっし)の変=大化改新島原の乱などいくつもの乱、変はあるけれども、大逆事件という今では歴史の中に埋もれてしまった、しかし、「大、且つ、逆」という名を冠せられた史実があり、さらには、新宮派(グループ)という特別な存在を有す土地でもある。中上氏が著書『岬』の中で記している「山と川と海に囲まれた」あるいは「山々と川に閉ざされ、海にも閉ざされた」此の地は、繰り返すが、ずっしりとした重さをもっている。数年前、新宮を「通過」した。手違いで、帰りの日を間違えていたのだろう、駅に着いて気づいたことは、本日中に大阪まで行く必要があったこと。そうでないと、明日では、手持ちの乗車券は期限切れになるという現実だけであった。したがって、目的地ではあったものの、通過したという感覚である。新宮駅を降り立つと、すぐ目の前にあると空想していた社(やしろ)は、実際には、寂れた商店街をとぼとぼと歩き、住宅街との境目付近にようやく、ひっそりと、しかし、赤々と座していた。断っておくけれども、わたくしは社(おやしろ)オタクなのかもしれないけれど、まるで信仰心はない。そこにあるという事実だけを確かめれば、それでよい、その程度のことである。訪れた際に求めた『熊野速玉(はやたま)大社・御由緒』(平成8年5月18日発行)によると、御主神は伊弉諾尊イザナギノミコト)、以前、拙ブログでとりあげた出雲大社の御祭神は大国主大神オオクニヌシノオオカミ)であったが、その祖は素戔嗚尊スサノオノミコト)で、速玉の若宮(上四社第四殿)である天照大神アマテラスオオミカミ)とは姉弟の関係にあたる(イザナギイザナミの子)。乱暴モノなので高天原を追い出され、出雲に渡った(らしい)。その子が大国主(大国様、大黒様・大黒天とは本来、別神)はいわゆる国譲りのヒーローである。神話から神代に移ると、神武天皇が登場し、東征が始まる。海路でもって、熊野にたどり着き、吉野などを経て、大和に入る、という“物がたり”。途中、トラブルに見舞われた神武一行をナビゲートしたといわれるのが三本の足をもつ八咫烏(ヤタガラス)、日本サッカー協会のシンボルマークにもなっている。東征は、敵の妨害などが頻発する多難な陸路を避けて、とった方法であるが、其処は陸路を行くよりもはるかにスムースな海の道が開けているのだから、鉄路、道路がある今でさえ3時間も4時間もかかることを思えば、太古の時代には海を選択するのは当然といえよう。社を裏手に回ると熊野川が開ける。向かいは三重県であるけれど、紀宝町である(平成18年1月10日、隣の鵜殿村と合併、新・紀宝町に)。川崎・先(河口)付近では両岸の距離がほぼ1kmに近い大河は長い間、官は新宮川と称し、民は熊野川と呼んでいた。平成10年、新宮川⇒熊野川に戻るのであるけれど、その直前に切なる願いをあらわしていた地元市町村による当時のHP資料を逸してしまったのであるが、民の「何故、熊野川ではいけないのか」という素朴で、篤い問いに対して、官は「川の命名は河口にある町を基本としています」という軽薄な言葉を吐いていた。四万十川木曽川、飛騨川、揖斐川吉野川、(順不同、思いつくままに)、一体、どこに、その根拠があるのだろうかと、官の融通のなさを通り越して、クマノに対する国の過敏さをも穿ってしまう思いをもったこともある。姑息なことに国は熊野川を含めた本川、支川などを総称した水系については、未だに新宮川(水系)を用いている。
 元の道(駅に向かう)を戻る際にウナギ屋で一杯呑むと、これから向かう場所は、新宮におけるもうひとつの“物がたり”徐福伝説についてである。新宮に着いた時から意識しながらいたのであるが、河口に近い方向に小高い丘のような高まりがあり、そこを蓬莱山という。紀元前210年、秦の始皇帝の使い(方士≒占い師?)であった徐福が帝の命に従って、不老不死の妙薬を求めて、遥か東海にあるという蓬莱をめざした。何度か気象条件やアクシデントにより、帰国をせざるを得なかったが、総勢3千人を率いた最後の航海でとうとう果した。その地が新宮であるという根拠は今のところ存在しない。全国には徐福伝説にまつわる地域が二十ヶ所ほどあるが、いずれも、決定的な裏づけはないが、それはそれで構わない、それぞれが物がたりをもっているほうがよほど嬉しい、楽しい。新宮駅から大社とは逆方向に少し歩くと、中国風庭園に設えた徐福公園がある。数十歩で裏の通りに出てしまうぐらいの大きくない公園であるが、ささやかな夢を抱かせていただいたと、グズグズととどまっていた。
 こじんまりとした家並の中、呑み屋も何軒かある小さな通りを進み、山のふもとの阿須賀(アスカ)神社にも足を向けた。小さな祠、資料館の脇に竪穴式住居があり、内部から弥生の火(電球だけど)がこぼれていた。徐福は一説によると、日本列島に弥生文化をもたらせた人物ともある。神社を北(川)側から蔽っている山が蓬莱山である。地名の音だけでいうと、宝来、鳳来という表わしかたが各地にあるが、おそらく同じ意味であろうし、妄想すれば、徐福が伴った3千人が各地に広がり、新たなホウライを探した末のことかもしれない。また、阿須賀(アスカ)に対しても、当然、明日香、飛鳥との連想を考えることも、あるいは、徐福=神武説を妄じることも、歴史の傍観者としては、面白いことかもしれない。(わたくしの頭では、そこまで思いが至らないけれど)
 ところで中上氏は岬を「ちょうど矢尻の形をして、海に食い込んでいる」と表現しているが、あとがき(文春文庫編)では、「他者の中から、すっくと屹立する自分をさがす」と、自らの思い、あるいは立場を岬に投影しているとも思われる言葉を残している。神武や徐福にとって、岬は海の道の終点であったとするならば、中上氏には海への道、すなわち、世界への道の出発点だったと思うのは、考えすぎか。
 新宮には、今夏、ホテルまで予約していたが、直前になり、思い直して、白紙に戻した。現時点では再訪する準備はできていない。(いずれ…)
 那覇首里城にある展示コーナーの一角に貼ってあった歴史紹介のパネルにも蓬莱の字があった。これについては、仲秋の宴として、近々、考え、書きたいと思う。
[全国の徐福伝説が分かります]http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm