泊・時間(那覇周辺訪問雑記NO4)

 泊(とまり)というのは全国各地で港にかわる言葉として、いや、むしろ原形として用いられている。おそらく、船(舟)が停泊する場所という意味もあろうが、その前提にある波(潮)が動いていない(静かである)という意味を含んでいるのであろう。渡嘉敷島・阿波連ビーチの「まめや」さんは那覇市内の山羊料理屋さんで教えていただいた店である。浜辺から小学校の脇にぬける小道を数分歩くと、見つかった。メニューの中からユシ豆腐を選んで、注文すると、9月5日までないんです、と、困惑顔で答えるお店の人。あれ、季節モノなのかと思ったら、そうではなく、今、ご主人は東京の百貨店で行なわれている沖縄展に出張っていて、ワタシは代理で店をやっているんです。だから、今は、このメニューしかないんです、と、急ごしらえの別のメニューをさした。そこには、ちゃんぷる以外には豆腐の文字が一切なかった。せっかく来られたのにねぇ、申し訳ないです。とりあえず、注文した泡盛を運んできながら、店の方がそう言い、しきりに気を遣ってくださった。また、来ればよいと思いながら、ゴーヤチャンプルと五本でワンセットの焼串(焼き鳥)を三本にしていただいて、肴とした。工場用の大きな扇風機に扇がれながら、ゆったりとした時間を過ごすことができた。港を泊と表わすように、このような時間のことも、「泊」というのであろう、先の扇風機と久しぶりに見た大振りで、元気の良いやぶ蚊以外は、何もかもが「泊」まっている。前の道を通る人の動作も遅い、彼らも、わたくしも急ぐ必要が米粒ほどもないのだから、それで、構わないのだろう。このような時間、空間、空気の流れは、例えば、那覇市内でも味わうことは滅多にできないのだろうと思う。もちろん、意識していさえすれば、どこにいようと、可能であることなのではあるが、無意識のまま、自然形で、実現することはむずかしい。ヒトは時間が戻れば良いと思うことが、何度もあろう。しかし、それは、タイムマシーンという、今では陳腐化した言葉かもしれないけれども、夢の機械でもって、戻ることはできても、現実的ではない。とすれば、せめて、時間よ泊まれ(止まれでは、矢沢永吉さんになってしまう)と思えば、わたくしは、今(渡嘉敷のまめやにいる時点)、やはり、至極の時間に泊まっているのだなぁと、斜向かいにある家の石敢當(いしがんとう)を眺めていた。この世を徘徊している魔物は直進しかできず、勢いあまって石敢當にぶつかって、砕けてしまうという、一種の魔除けであるらしいけれど、できることなら、時間も砕いてほしいと、意味もないことを願っていた。
 ちなみに、「めんそーれー大沖縄展」は7月20日から首都圏の伊勢丹を巡回しており、8月24日〜29日は立川店、31日〜9月5日は吉祥寺店で開催されると、お店の方に頂いた案内チラシに記してあった。もうすぐ、まめやさんの長い東京滞在が終わる。