寫眞

 昨日は、写真について、ふれた。繰り返すと、椎名林檎さんのギブスという曲の中に、「写真になってしまうと、(撮られた途端に)わたしは古くなってしまう」という言葉があって、ああ、そのとおりなのかもしれないと、写真を「撮られると、命をとられる」と信じていた昔の(写真創生期)人たちのことを思い起こしていた。古い話であるが、パリに行った時、リュクサーンブール公園前の古本屋だか、雑貨屋での軒先で、段ボールに詰まった古い写真や絵葉書を1葉1フランあるいは1/2フラン(50サンチウム)で売っていたのをみて、しばらく、しゃがみこんで、箱の底まで、探って(漁って)いたことがある。その中には、どういう経路でかは分からないけれど、日本の写真や葉書まであって、いわゆる私信が何十年か経過して、売られていることに、驚いた記憶がある。もう、内容までは憶えていないのだけれど(かすかな記憶の中に、第二次大戦中に母親が息子に印した葉書があったように思う)、今、思えば、何葉か求めても良かったかと、悔やむ部分もあるが、その際に何故買わなかったかについては、今でも、印象に強く残っており、その理由は「怖かった」からである。まだ、旅の途中にあった、わたくしは、もし、その時、その何葉かでも手にして、リュックかなにかに、それらを伴っていくことが、非常に恐ろしいことに思えた。単に臆病者であるということだけなのかもしれないけれど、自らと何の関係も、脈略もない写真や葉書を携えながら、これから、さらなる未知の世界(国、地域、まち、ひと…)へと向かうことが憚られた、確かに、そういう想いがあって、ポケットにあった硬貨を遣うことなく、その店を離れた。わたくしには、写真に写っていた彼ら、彼女らを、あるいは、親しい人に宛てた書き主の想いを引きうけるだけの覚悟もなかっただろうし、なによりも、連れだっていくにはあまりに重い同伴者だったということかもしれない。買わなくて良かったというのが、今の思いである。
 わたくしの手元には古い写真がない、もともと写真が嫌いなのかもしれないが、以前には「あった」はずであるが、親であるとか、その累から譲ってもらっていないということもある。昔の自分の写真などは、もういまさら見ても仕方ないことではあるが、林檎さんがいうように写真の中の自分(わたくし)も古くなっているのだろうけれど、今のわたくしも十分古くなっているのだから、見較べて、どちらが古いか、確かめてみたい気もする。