いいとこどり

 こだわるようだけれども、歴史というのは「積み移し」でしか過ぎないという考えが、まだ、わたくしの動かない頭(脳)の中からとれていない。エクセルで面グラフを書いてみると、基軸を台として、二軸を(台の上に)乗っけたりとすると、とりあえず、地層のような図ができあがる。もちろん、台(基軸)の数値を二軸のものより大きくしなければ、そうはならない。歴史というのは、この面図の姿のようなもので、台は変わらず、単に、二軸の数値が、当然ながら台を超えることなく、上下(変動)しながらも、結局は「出ては消え」の繰り返しを行ない、歴史のページからは失われていく、そういうような仕組みに近いのではないかと、何の意味ももたない面グラフを目の前にしながら思っている。ただ、何の変化も起こらない台と異なり、二軸の方は、それはそれで、時代時代の先端なり、異端に位置しているのであるから、思わぬ「イイ目」を見ることもあり、しばしば、時代の寵児として、「いいとこどり」が可能な存在でもある。較べて、台の方ではというと、ただただ変哲のない台上を、すいすいと泳いでいく「いいとこ乗り」が絶えず存在していることを忘れてはならない。
 椎名林檎さんのギブスという詩歌に写真(を撮るのが)大好きカレシがいて、自分(カノジョ)はそれを嫌がる。その理由というのが、写真に撮られた瞬間から、わたしは古くなるから(だからイヤだ)という。考えてみれば、わたくしたちは、生まれたその時すぐに誰か(誰かは分からないけれど)に、撮られているのかもしれない、したがって、その(生まれた)瞬間から、『古くなって』いくのかもしれない。そう思うと、積み移しの論理が何となく、まがいものから真実味を帯びてくる気がする。もちろん、林檎さんはそういう、恣意(的)なこといってないよと言うかもしれないけれど。わたくしたちは生まれることは新しいと思いがちであるが、実は、生まれること=古くなっていくこと(林檎流では写真に撮られること)だと認識しておくことも必要かと思う。もちろん、台上の二軸の重みでもって、わずかながらでも二軸の要素が台中に紛れこむ(あるいは圧=お、しこめられる)こともあろうが、全体的には、台は台として、なんら変わりはないのだろう、それが歴史というもの、そういう、つまらない考えが、とれずに困っている。
 もちろん、世の中に絶対ということはないと、林檎さんも仰言っている(ギブス)ので、以上のことは、単なる妄想でしかない。