うだつ(〓・卯建)

 フェイルセーフ(拙blog、曖・昧・味(I MY ME)6・10付)というのは近代になって突如生まれたことでもないだろう。以前、徳島に行っていた頃、一度は訪れたいと思っていた脇町に最後の頃、駆け込みで実現した。同町の一角に瀟洒な、落ち着いた町並みが残っており、「ウダツの町」として、全国に名高い。ウダツというのは、延焼を防ぐために造作されたもので、同じ意図でもって江戸いろは四十八組で構成されていた町火消しがある(別に本所・深川十六組があったらしい)。映画やドラマでみると、まるで燃えさかる家屋の上でもって纏いを振りかざしているだけのものであるが、画面に映らないところでは、火消し衆が必死でもって、鈎やらなんやらで、延焼を防ぐために、燃えさかる家ではなく、その両隣あたりの燃えていない家を壊しているらしい。燃えていないのに壊されている家の主には納得しがたいことかもしれないけれど、これによって、さらなる被害(延焼)が防ぐことができるのだから、仕方がない、とあきらめるしかないのだろう。仮に鎮火後の検証で、実際には隣家に累が及ばない程度の火事だと結論づけられたとしても、隣家を壊したことは、正しい判断だとされるに違いないだろうし、隣家も火災保険のない時代とはいえ、納得して(させられて)いたはずである。これがフェイルセーフなのであろう。
 しつこいかもしれないけれど、フェイルセーフというのはあくまでも技術上のことであって、人間がその考え方に陥ることはフェイル_フェイル、あるいはフェイル_アウトにすぎないことを肝に銘じておくべきである。人間の心には、そうしたフェイルセーフを凌駕する迷いあるいは矛盾が常に存在し、成長していることを確認しあっておかないと、いつのまにか、セーフはアウトになっている。先の火消しで例えれば、め組の何某かは、隣家がたいへん世話になっている親戚か何かであったがために、壊すのに躊躇があり、また、出火元の燃え具合を職業的、経験的な自己判断から、おそらく延焼はしないで、その前に火は落ちる(鎮火する)だろうという推測(見込み)でもって、放置(壊さない)したとすれば、これは、フェイルセーフの規程を放棄しているとしなければならない。フェイルセーフとはあくまでも第三者的な判断でもって、実行すべき問題であって、だからこそ、技術的な問題であるといえる。決して、人間が判断する問題ではない。今回(JR西、福知山線)の、また、数々の事故(惨事)はフェイルセーフの軽視、否定といったヒトの問題ではなく、そもそも技術(ハード)としてのフェイルセーフが機能していないことから始まっている。そのことを見直さない限り、再び繰り返されることは眼に見えている。昨日、京葉線でイッコ先の駅名を誤って「次は○×」とアナウンスしたことで、何十人かの乗客が本来降りるべき駅の手前駅で降りてしまったというニュースがあった。アナウンスした側(鉄道事業者)には間違った情報を流した際には、制御センターなどが誤情報(アナウンス)を自動察知したうえで、車掌にフィードバックするなどの技術を構築すること(=フェイルセーフ)が求められるだろう(可能かどうかは、わたくしには分からないが)。一方、乗客側には、と考えると、アナウンスだけを信じるのではなく、降りる前に駅を確認する程度のフェイルセーフがあったならばと思うけれど、そもそもヒトにフェイルセーフを求めること自体、困難なのであるから、非はないと考えてよいだろうし、むしろ、繰り返し、しつこいけれども、技術、ハードの方で、そのこと(ヒトにフェイルセーフを求めてはいけない)を含めたフェイルセーフが求められるのであろう。
 ただし、このことはヒトにフェイルセーフを求めてはいけないという決めごとの範囲で言っているのであって、本来はヒトの心の内にもフェイルセーフが備わっていることが、なおセーフティであることは当然である。『ウダツがあがる、あがらない』は金銭の問題(多寡)かもしれないけれど、心にウダツをもつ(あげる)ことは、その限りではない。…

ウダツの街「脇町」「脇町商工会のHP」…今は合併で美馬市となっている
http://www.tsci.or.jp/wakimati/udatu.htm
東京消防庁「消防雑学辞典」…組のことよりも、その中にある町名の豊かさにツイ目が行ってしまう
http://www.tfd.metro.tokyo.jp/libr/qa/qa_03.htm