n(えぬ)のくに

 わたくしは長い間勘違いしていたが、加賀藩というのは現在の金沢あたり(だけ)をさすのではなく、広く、越中能登、加賀三国の総称としてあると最近知った。もう少しみると、加賀藩というのがあって、そのモト締めが金沢藩(=加賀藩なのだけど)、で、その支藩として、大聖寺藩(加賀国)、能登国には下村藩と西谷藩(これは2年ぐらいだけ)、そして越中に富山藩とがあって、これを総じてカガハンというらしい。さらに大聖寺藩には新田藩という支(孫)藩もあったそうである。
 小納(こな)さんの著作を引き続き読ませていただいている。まだ天売島沖の遭難にひっかかっており、中々前に進まない、そこばかり、繰り返し読んでいるのだけれど、ほかに送っていただいた『焼尻島残影』という正次さんのお父様(政吉さん)が大正末から昭和初期にかけて撮影された島の風景、光景を懐かしむ?ように拝見させていただいている。98(平成10)年に小納正次さんがお父様の撮った角度、心情になるべく近いように自らもカメラに納めた画像もあり、わたくしが行った当時にも間近である。(前年97年である)
 小納家の在は羽幌町HPなどの資料から、明治期に石川県塩屋村から渡ったとある。塩屋村を調べても、今では存在しないから、加賀市塩屋町だと推測してでのことであるが、ここは、いわゆる北廻(前)船の基地として、栄えた場所でもある。北國新聞社の04年10月16日付け記事に「ありし日の」塩屋村の記述があった。
北前船主、栄華の証し 小松の瀬戸家 豪華花嫁衣装を公開へ》と題した内容を抄略(訳)すると、明治期に塩屋村の北前(廻)船主である塩浜屋から嫁いだミネさんが鉄道の客車を貸切って大聖寺から小松まで運んだという嫁入り道具の一部をご子孫が公開されたと書かれている。両家ともにニシン漁で財を成したのであるが、これが明治39(1906)年であった。小納家の塩屋先祖である小納宗吉さんが焼尻村(島)に渡ったのが明治34(1901)年であるから、まさに、塩屋が村全体で沸きあがっていた頃であり、それは島原遊郭の移転どころの騒ぎではなかったのであろう。小納家については検めて書くこととして(今、拝読中)、本日は塩屋村、あるいは小納政吉さんが生まれた月津村を包んでいた江沼(えぬま)郡について想っている。(※政吉さんは塩屋先祖の流れにある、ミヨさん=正次さんの祖母にあたる、のもとへ入夫している。)今、属するのは温泉地として有名な山中町のみである。さかのぼると、もともと江沼は越前の国であり、のちに加賀国になる。チョット、駆け足ではあるが、昭和33(1958)年1月1日に旧江沼郡のうち大聖寺町、山代町、片山津町、動橋町、橋立町、三木村、三谷村、南郷村塩屋村の9か町村が合併して加賀市が誕生した。一方、月津村は小松市に組み入れられた。もう一度、時を戻すと江沼は「えぬの国」として延喜式にも現われる、らしい。また、針を一気に進めると、月津村には興宗寺という真宗大谷派東本願寺)の古寺があり、そのご住職のHPを見つけた。実は、塩屋村⇒月津村⇒江沼郡という検索過程の中での偶然ではあるけれど、その響き(わたくし的にはnの国)にいっとき、小納家を擱いてでもと、想うに至った。島原遊郭が二条から朱雀野に移る手前(1602=慶長7年)に東本願寺ができると同時にその北側に遊郭を移したと、拙ブログ5・5付で書いたが、その年は、いわゆる東西分派で、もともと同筋であった月津の興宗寺は東派に、福井(えつの国)にある興宗寺は西派(浄土真宗本願寺派)に分かれたと別のサイトにあった。加賀といえば、あるいは江沼もそうであるが、一向一揆がある。これを制圧したのは北の庄(えつの国)生まれの織田信長である。東派を寄進したのは徳川家康であった。たいへん、とりとめのない文章であるけれども、´えつ´という非常に興味深い国と隣り合わせに´えぬ´の国が存在していたとは、モノ知らずであるがゆえに、少し、得をした気分でいる。また、ひとつ、妄想の類ができた思いである。これも、小納さんのお陰と考えている。
真宗大谷派・(月津)興宗寺のHP]
http://www.ne.jp/asahi/ishikawa/enunokuni/