Misia ∩ MISIA

 ポルトガルには、たとえ、それがロカ岬の夕陽を観にいくだけでも良いと以前書いた(05.03.07)。
 ファドという音楽世界があるけれど、彼女ほど素的な人はいないと個人的に決めつけており、元気がない時に、わざと彼女の曲を聴くように努めている暗い性格な、わたくしである。で、今日は、そのMisia(ミージア)さんを聴きながら、こちらは全て大文字(?)のMISIA(ミーシャ)さんのお話を。昨年の暮れ近くにリリースされた彼女のアルバム『MISIA/SINGER FOR SINGER』を聴いた。久保田利伸さんという素晴らしく才をもった方の曲から始まる(Let It Smile、詞はMISIAさん)。そして、3曲目に収録されている、わたくしはとんと知らなかったけれど、某映画の挿入歌ともなっているTAKUROさん(GLAY)の詞曲による『冬のエトランジェ』を聴いて思ったことは、ああ、この人(MISIAさん)がエンカ界へ本格的にのめりこんでしまったら、他の歌手は敵わないなだろうなぁと、全くの素人考えであるが、そういう気持ちで聴いていた。もっとも、この曲のサビ?にあたる『男…揺りかご…、女…揺りかご…』の部分は(たいそうなことはいえないけれど)演歌の詞として、心にグッサリと来てしまう、ツボにはまった詞だなぁという事情もある。もともと、Gさんは演歌系が似合うなと思っていたけれど、MISIAさんのアルバムで再認識させられた。他に、耳をかすめたのは『…はシマシマ模様…」(虹のラララ)、MISIAさん自身による詞に、軽快な玉置浩二さんの曲だった。行ったことはないけれど、LAの乾いた空気のような、そういう場所でしか、シマシマな模様は感じられないのかなぁ、と、行く気にはならないけれど、LAに対する独り善がりの印象をもった。
 と、本日は、まるで、わたくしらしくないことを書いてしまっているが、なぜかというと、ある記事で、世代間の違いという表現を改めてみて、演歌(以下、エンカ)を通して世代間の違いを考える気になったから。一般にエンカは人気がないという印象があるが、これはデータの採り方によって、どうにでもなろう。オー社は演歌健闘という、ピー社は依然売上は低迷と分析している。(巻末の両社サイト参照)
 エンカにも当然ながら世代間格差があり、AさんとBさんとではまったく異なったエンカを好み、口ずさみ、それぞれの人生におけるエンカをもっていても不思議ではない。上記2社のデータには、「我が家の、お風呂で口ずさむエンカ」まではカウントしていないから、量(売上)が減った増えたは容易に判断できないけれど、口ずさむ歌(エンカ)の内容は世代によって、異なっているだろうというのは想像できる。ただ、だからといって、口ずさむエンカが異なるから生き方も、考え方も異なり、つまりは、BさんはAさんとは相容れない、それを世代間格差と簡単に処理して良いものかどうかの判断がつきかねる思いがする。件の記事は、ある企業の体たらくに対して、世代の異なるOB間の対話として、よりOB(つまり年上)からの提言に対して、年下のOBが返した言葉が、「今の若い(現役)子はOBとは世代が異なり、われわれ(OB)がうるさく言っても、かえって逆効果だから、何も言わないで自主性に任せた方が良いのでは」というモノであった。年下OBの言い分は年上OB≠年下OB≠現役なのだから、全てに関して「≠」というトーンを感じ、その部分に、「腑」が落ちなかったところから、このブログへとなった。
 もう、30年目も前か、五木寛之さんが書かれた『艶歌』という著作があって、その中でか、他でか、演歌<艶歌<怨歌という氏の筋立てが面白く、のちにTVドラマ化されたのをみていた。エンカというのは、ヒトが口に出せないヤルセナサを、啼くかわりに歌うというようなことを仰言っていた。さらに、(かなりの曲解かもしれないけれど)エンカは怨み節、怨みだから、決してHAPPYな方向でない人から発せられるウラミの声であり、いつの世でも、それは存在する…エンカはナショナル(庶民)歌、というようなことを表わしていたような(あくまでも)気がする。さらに、そのことは、Misiaさんの声も奏でているfadにも共通しているとも、また、ブルース、JAZZも然り、というような趣旨のことを仰言っていたと記憶している。(ただし、かなり勝手かつアイマイ、独善的な記憶である)
 そのエンカが今、あまり受け容れられなくなったというピー社の分析に沿えば、ひょっとして、今のニンゲンにはウラミが生じていないから、という憶測もできる。あるいは、上記、年下OBの言う世代が異なるからということにつながるかもしれない。ただ、五木氏の言葉やMISIAさん、あるいはGLAYさんのことを併せもつと、確かに、生き方、考え方あるいは価値観は移ろいでいるのかもしれないけれど、わたくしには単にゼネレーションギャップだけでは片づけられないエンカというタマシイが世代を超えて、姿形を変えても、なお存在しているという思いがしてならない。もっとも、有史で表わせば数千年の歴史において、社会(トキ)という流れはあるものの、人間(ヒト)というモノは根本でほとんど変わっていないのではという、かすかな望みをもつこと自体、おかしいことなのかもしれないけれど。「ゆく河の流れは絶えずとして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」高度成長期の京の都に住まう鴨長明ではないが、ヒトというのは絶えず淀んでいなければならないような気がしてならない。
 MISIAさんのアルバムを聴いて、こういう、普段にも益して、たいへん青っぽい考えが浮かんだ。これも、非・成果(決して実にはなれない)の、わたくしっぽくて、良いのかもしれない。青葉繁れる五月(皐月)は稲苗月、多草月ともいうそうである。元気を、失ったので、引き続きMisiaさんを聴くことにしよう。
Misia]のサイト
http://www.misia-online.com/
[オー社の見方]
http://www.oricon.co.jp/music/business/050228/spe_01.html
[ピー社の分析]
http://www.pia.co.jp/pia/release/2004/release_040707.html
鴨長明方丈記」(青空文庫)※ただし、上文は岩波文庫方丈記」(市古貞次校注)より引用
http://www.aozora.gr.jp/cards/000196/files/975_15935.html