大手筋界隈(伏見桃山)

 京都駅から京阪電車近鉄で、いずれも普通電車に15〜20分ほど、のんびり揺られて、前者は「伏見桃山」、後者は「桃山御陵前」で降りると、標題の大手筋界隈に。もともと伏見区伏見市と名のった時期が2年間ほどあった。(昭和4年伏見町及び周辺町村で伏見市に、同6年には京都市編入伏見区に)そのせいか、今も京都とは異なった風、空気、息づかいを感じさせる雰囲気を有している。
 歴史は安土・(伏見)・桃山時代に遷って、平安、鎌倉、室町と続いた(貴族)権威による搾取から(武家・商人)経済による搾取へと移行し、伏見はいわば京と大坂・堺を結ぶ水運の基地として、おおいに栄えた。特に太閤秀吉が桃山に築城して以来、その城下町として大手筋は賑わった。江戸時代になると角倉了以(すみのくら・りょうい)により二条から伏見を結ぶ高瀬川が開削され、宇治川、淀川を経て大坂と結ばれた時の繁華ぶり及びその終焉を月桂冠のHPがこう紹介している。(著者は、栗山一秀;くりやま・かずひで氏)
《港町伏見・舟運の歴史》
 江戸時代、伏見に集まる船は、有名な三十石舟(過書座船)が740隻、十五石舟(奉行支配船)が200隻、淀二十石舟(運上免除船)が500隻、さらに高瀬舟が200隻と驚くほどの多さであった。それが明治2年(1869)、淀川にも蒸気船(外輪船)が就航するようになると、あれほど繁盛した三十石船も次第に少なくなり、明治10年以後、京都〜大阪間を鉄道が走り、明治43年(1910)には京阪電車が五条〜天満橋間に開通するに至って、ついに三十石舟は休舟、大正 9年(1920)、高瀬舟も廃止されてしまった。しかし、鉄道貨物の利用が急増して混雑するようになったため、再び船運が活況を呈するようになった。とくに昭和4年(1929)、三栖閘門の創設によって、年間2万隻以上もの船が通航していたといわれているが、その後淀川の船は次第にその数を減じ、昭和37年(1962)、貨物船の運行が終焉、同43年(1968)には伏見港も埋め立てられ、ここに伝統ある伏見の舟運はその幕を閉じた。》
 北海(天売・焼尻)の川崎船もそうであったように、おおむね「舟」(動力を伴なっていない)の歴史は昭和初期に閉じているようであり、また、伏見の場合、ちょうど市制を敷くのと同時(昭和4年)に三栖閘門(みすこうもん)を得て、勢いを増したが、その後、寂れていく一途にあったようで、そのことが、わずか二年で京都市と合併編入という不自然な事情につながっているのかもしれない。
 ついでに書くと、角倉が掘った(削った)高瀬川は京より大坂まで遠島の罪人を護送したルートでもあり、森鴎外の『高瀬舟』に以下のくだりがある。
《さう云ふ罪人を載せて、入相(いりあひ)の鐘の鳴る頃に漕ぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を兩岸に見つつ、東へ走つて、加茂川を横ぎつて下るのであつた。》
 (人目を避けて)夕暮れを告げる晩鐘の鳴る時分に下京の牢屋敷を出た高瀬舟は、どの程度の速度で航行したか分からないけれど、智恩院(ちおんゐん)の櫻が散り始めた春、朧月夜が更けていく頃には、加茂川(鴨川)と合流して桂川となる地点に浮かんでいたのだろうか、それとも、伏見で荷請けあるいは荷卸しをして宇治川を下る三十石舟が木津川と重なり、淀川となる桂川との合流地点に達していたのだろうか、そのあたりは良く分からないが、ま、わざわざ遭遇させる必要もなかったのだろう。
 さて、大手筋は、今、地図で確認すると、ご城下をつっぅと一本道で、竹田街道油小路通(途中、1号と合流して、堀川通りとなる)と交わいながら、京阪国道(1号)までの約2.5km、このうち、伏見桃山駅を降りた右手からソーラーアーケードで蓋われた大手筋商店街が400メートルほど続いている。(お城は左方向へ)商店街で最初に迎えてくれるのは近在農家のおばぁさんらが売りに出している野菜や漬物。両側にはおよそこの世のあらゆる業種が揃っているといってよいほど多種多様なお店があまり大きくもなく、ひしめきあうように並んでいる。しかも、これまた、あまり広いとはいえない筋(通り)にすれ違うことさえ難しいほどの大勢の買い物客。幸い、昼間から夜8時ごろまでは車両進入禁止だから、たまに、無遠慮な自転車さえ気をつけていれば、きょろきょろと店を覘きながら、また、歩くという繰り返しができるので、短いながらも大いに楽しめる。それでも、終点までの距離は間遠とはいえないので、小一時間のぶらぶらですんでしまう。急に道幅が広がり、人通りも少なくなる紺屋町あたりで、狭い通りに誘われて左折すると、そこが竜馬通り商店街への入口である。正確にはさらに下って、油掛(懸)地蔵尊由来と思われる油掛通りの先から、その幕末回廊と名づけられた商店街は始まる。わたくしのような浅学モノにはその先に寺田屋があることなど見当もつかず、しばらく進み、右折すると、竜馬所縁の宿が現れる。今でも現役(営業していらっしゃる)という旅籠屋をさっと外観だけ見て、通りを戻り、そのまま直進すると、左手にカッパでおなじみの黄桜酒造の「キザクラカッパカントリー清酒工房」を発見!。しかし、何故か、日本酒屋なのに地ビールの幟が目立っていたので、パスしてしまった…固定観念のぬけないわたくしである。
 伏見といえば、関西では灘と並ぶ酒処であり、フシミはもともと伏水(伏流水)ともいわれた。カッパを後にして、さらに前を行くと、今度は月桂冠の蔵が一帯に広がっている。(あ〜あ、酒が呑みたい)と思いながら、通りをうろうろしていると、敷居の高そうな焼き鳥屋が。これも固定観念にしたがってパスして、京阪と近鉄の線路間の通りを上って、大手筋の起点に戻ってきた。今度は右に方向をとって、お城方向へ、途中、御香宮(ごこうのみや、あるいは、ごこうぐう)という社があって、幸い、梅の花満開の時季であり、まさに香りの宮である。ただし、由縁は、この宮から湧きいずる水は香りが良く、病も治したともいわれ、清和天皇より「御香宮」の名を賜ったということらしい。この香りの良い水というのは、どういう成分をさしているのか分からないけれど、日本酒に適しているということだけでも、その高質さは想像できる。
 さて、ひと回りしたところで、桃山御陵前駅の向かいの高架下にある居酒屋に入る。夕方4時ごろから開いているのが、何とも心強い。仕度途中の店主にビールを頼み、ぼちぼち仕掛けが終わる頃合を見て、日本酒を。ようやく、主も客も落ち着いて、カウンター越しに世間話を。主人によると、以前は近所の造り酒屋に丹波や越前から毎年やってくる杜氏あるいは蔵人さんたちで店も一杯だったといい、今はほとんどその姿もなくなったと、店主は嘆くふうでもなく、往時を懐かしむように呟いた。わたくしは、杜氏さんたちは、てっきり仕込みをする酒屋で自由に呑めるものとばかり思っていたが、どうもそうではないらしく、わたくしたちと同じように、平等に、居酒屋で呑んでいたのかと思うと、何か虚をつかれたという気分と、彼らとの距離が近づいたいような気持ちが混じりあって、少し可笑しいような嬉しいような心持ちになった。おそらく、杜氏・蔵人さんが呑みに来られなくなったのは、彼らの後継者不足→酒メーカーの機械化という循環が進んでいた結果であろうが、このことは、多くの地方都市で呑み屋の方から、耳にした…「昔(以前)は■※さんらでいつも盛況だった」という言葉と通じている。例えば、南洋捕鯨船の基地横須賀、あるいは炭鉱景気で賑わった平(いわき市)、また、米軍基地の三沢などである。いずれも時代の趨勢あるいは社会の要請といえばそれまでではあるが、徒(いたずら)に店ばかりが増え、たちまち消えていく東京という場所と呑む者が消え、呑み屋だけが頑張っている地方という対照を思うと、時代というのは、社会というのは、さっと動く方が良いのか、じっと変わらずにいるのが良いのか、このあたりで考えることも必要ではないのだろうか。

 さて、大手筋界隈を歩いたり、喫茶店に入ってみて感じるのは、ここは、洛内の気質とは全く異なった、むしろ阪堺にきわめて近い細々(こまごま)とした人たちが住んでいるなぁという、もちろん、親しみを含んだ思いが募るばかりである。当然ながら、洛内にもそのような生活臭は存在しており、そのことは、拙blogでも書こうと思うけれど、比べてみても、しごく勝手な解釈ではあるが、居心地が違うという印象がしてしまう。
 やはり、京都(洛内)にいると、(外モノあるいは一見、フリの客として)立たされているという、よそよそしさを感じてしまうのだが、ここ(大手筋)では、伏見という一地方都市の懐かしさと安心感が街全体に漂って、座り心地の良さばかりが、御香宮の梅とともに今でも、わたくしの中に残り香として、確かに息づいている。

大手筋商店街HP
http://www.otesuji.jp/
幕末回廊 竜馬通り商店街HP
http://www.joho-kyoto.or.jp/~ryoma/
月桂冠?HP
http://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/fushimi/200303_01.html
森鴎外の「高瀬舟」…青空文庫です
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/691_15352.html