松江・・・あらゆる水をもつ町

 これまで島根県熊本県、宮崎県には足を踏み入れたことがない。いずれも神に近づけそうな土地であり、いつかは行きたいと常々思ってきた。04年晩夏に、その一つに行けることができた。

松江・・・あらゆる水をもつ町

 松江には永年想いを寄せながら訪れる機会がなかった。昨夏に思いがけず行くことができ、日程の半分以上を遊びに充て、六日間ほど滞在した。これという目的のない逗留であり、宍道湖畔に近い松江大橋脇の、いわゆる橋北の最南端に宿をとり、ひたすら松江の空
気を吸っていた。
 人口十五万人の小都市は街を歩くには一日もあれば十分であったが、わたくしには、どうしても、それだけでは離れがたい想いがあった。結局、仕事もそこそこにほとんどを松江との対面に費やした。
 JRの駅前は他の何処の都市とも異なるものではないが、朝着いた松江駅構内の喫茶店で、まず驚かされたのは人(お客さん)の多さであった。サンライズ出雲は午前九時三十分前後に着くから、もう、早朝あるいは通勤時間帯ではないのだが、コーヒーでも、と思
って気軽に入ったものの、座る席を探すほどの混みようであった。当然ながら、わたくしのような夜汽車仲間もいるのだが、大半は地元の人たち、もう定年を迎え、朝に街を散歩してきただろう、ご年配の方、まだ、開かぬ駅ビルの店にでも買い物に来たであろう家族
連れなど、松江の人は喫茶店が好きなのだろうかと、ふと喫茶というのはもともと茶の心からきているものだから、そして、松江はなんといっても和菓子づくりの盛んなところだからと、勝手な解釈をしながら、揺れる車内で、(松江に次第に近づくことが嬉しくて)寝つくことができなかった昨夜の睡眠不足を補うように二杯目のコーヒーを飲んでいた。
 橋北の滞在先までは十五分ほど歩けば良いので、目貫き通りを避け、できるだけ、旧家がありそうな狭隘な通りを選びながら、川(湖)を目ざして、結局三十分かけて、着いた。途中、目の前に宍道湖が開き、それは、私が描いていた松江という町の一方の姿であった。
宍道湖の夕景、橋南より望む)
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 芥川龍之介は松江印象記の中で、《松江はほとんど、海を除いて「あらゆる水」を持っている。》と記している。(脚注)

 旅先に着き、先ず感じるのは、水の味である。喫茶店で出されるグラスの水が美味いかどうかでその町の素性が少し分かったような気がするが、夜行寝台で着いた朝の松江駅構内の店で飲んだ水は美味しく、その後、入った飲食店でも同じように感じたから、総じて
松江の水は美味しいと言えるのだろう。
 調べてみると、もともと松江は(飲料)水に恵まれなかったと書かれており(松江市HP)、今のような人口を支えるために、山あいの水源地をダム化してきたという。それでも美味しく感じられるのだから、源(もと)がよほど良いのだろう。
 松江城郭のお堀を歩いていると、芥川も一時滞在したという、内中原地区の一角に記念碑が建っており、先の滞在記の一文が刻されている。ちょうどお城の西側にあたるこの地区の住民の方は「まちづくり」にも熱心で、ヘルンの道と名づけられた散策歩道もワークショップを何度か開いた末に、完成したそうである。
 一方、松江市では増え続ける自動車交通量と市中心部の渋滞を解消する目的で主要な街路を拡張しようという計画がなされている。そういえば、街を歩いていると、そんな無粋な企てに反対しようという垂れ幕が目についたが、一体、車と人とどっちか大切かを考えれば、圧倒的に後者を推す声の方が大きいと思うのだが、公というのは、そうではないらしい。いずれ、この歩くにちょうど良い通りも排気ガスに塗(まみ)れた素っ気のない道路に変ってしまうのかと思うと、寂しい思いになる。

 松江のもう一つの姿はラフカディオ・ハーン小泉八雲である。松江の人は八雲を親しみと敬愛をこめて、ヘルンさん(様)と今でも呼んでいる。松江城を周遊する観光用の手漕ぎの舟を眺めながら、お堀に沿って歩けば、迷わず、小泉八雲記念館のあるお屋敷町に出る。従前の西洋的な建物から景観を周囲と調和するために今の和風建築に変えたといい、なるほど、むしろ、どれが記念館か分からないほどに周囲に溶け込んでいる。
 入ってみると、中はさほど広くなく、二、三十分もあればひと回りできるほどであり、八雲に所縁の展示品が並べられてある。八雲が小学校時代にすでに書いていたという怪談など、勉強不足のわたくしが知らなかったことも記憶としてあるが、館内に気にならない程度に耳に入ってきた曲のことがもっとも印象深く残っている。館内で音楽を流すというのは珍しいことではないが、たいていは民謡であるとか、その土地に関わる歌であったりするが、ここではENYA(エンヤ)の曲を採り上げていた。偶然であるが、いつも移動中にはMDを欠かさない、わたくしは、この時も歩きながら聞いていたのだが、それが、たまたまエンヤだったというのも、ヘルンさんの為せる業なのか、父親がアイルランド人(母親はギリシャ人)という八雲にちなんで、この館か、あるいは市役所の担当の人(?)が気を利かせたのだろう。そういえば、松江も、アイルランドと似たような風土があるかもしれない。八雲も遠くアイルランドを思い、この地に住んでいたということから同国出身の歌姫の曲を採用したという、断り書きがしてあったようにも記憶している。(定かではないが)
 外に出ると、まだ陽は高いけれど、記念館隣のお蕎麦屋さんで出雲蕎麦を肴に呑み始めた。幸運なことに、ちょうど、団体客が退くところで、二十席ばかりの二階部屋には他に一客いるだけで、お堀を見下ろせる窓際の席に座り、まどろんでいると、ヘルンさんが、呑むばかりが人生ではないよ、と、ぬぅっ〜と、現れてきそうで、思わず身震いを覚えた。

 ところで、芥川の滞在記は一九十五(大正四)年八月に著されたものであるが、当時、松江市宍道湖という海ほど(同然)の水は有していたが、海には面していなかった。その後、一九六〇(昭和三五)年八月一日に隣町の秋鹿村、大野村を編入したことにより、松江はあらゆる水を持った。そして、今年三月には近傍の町村との合併により、より豊かな水を持つことになる。


(脚注)「松江印象記」の全文は「青空文庫」でどうぞ
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/96_15248.html