へしこ(福井)

 福井県の若狭には何度か行ったことがあるのだが、そこでは、この存在が分からず、ある時、福井市に行き、たまたま入った居酒屋で知った。カウンターに座り、一杯やっていると、店主の背中越しにぶら下がっている短冊メニューの中に、「へしこ」というのを見つけた。恐る恐る、それが何かを尋ね、注文した。女将さんが「そのままで食べますか、焼きますか?」と聞くと、背後から店主が「焼いた方が美味しい」と一喝、しばらくすると、カウンターにも香ばしさが伝わってきて、酒呑みの咽喉を刺戟する。どうぞと出されてきたのは、コンガリ焼けた鯖の半身が何やらゴソゴソした、お焦げのような粒状の物体で包まれている。焼き加減はミディアムより少しレア寄り、ちょうど、タラコを半生焼きにした程度の具合。表面のゴソゴソの正体は糠だった。口に入れると、その糠の芳ばしい香りと少し、いや大分ショッパイ鯖本体の味があいまって、これはもう肴としては十分すぎる。他にツマミが要らない、店泣かせの逸品である。
 へしこは、新鮮な鯖の身を塩漬けしたあと、糠に漬けて、保存食として、越前、若狭、丹後辺りでは昔から珍重された食べ物であるらしい。後日、へしこのことを旧知の若狭の漁師さんに聞いたら、「今は家庭で作ることは少なくなった」と言い、以前は、家庭ごとの秘伝の味があったらしい。一度口にしたへしこの味は忘れられなく、以来、魚屋や土産物屋の軒先が気になり、覗いてみると、意外に売られていることに気づいた。あれだけ何度も乗り降りしたはずのJRの駅構内でも販売されており、その都度、一本か二本買って行くようになった。しかし、どれも、最初に食べた福井の店から比べると、う〜む、という感じは否めなかった。何でも最初は美味しく感じるのだろうけれど、どう客観的に判断しても、それを超越する、へしこには出逢えなかった。
 数年後、北陸方面に仕事ができ、福井にも行くことになった。翌朝の日程上、お城近くのホテルに泊まらざるをえなかったけれど、「アノ」へしこが食べたくて、駅前まで歩いた。店の名前も覚えておらず、場所さえ確定できず、散々歩いた挙句、此処だという店を見つけ、思い切って入ると、あの短冊メニューを見つけ、酒を頼む前から「へしこ」を。お酒で咽喉を潤していると、待望の品が目の前に。忘れかけていた至福の感覚(味覚)を堪能できた。
 観察してみると、どのお客さんも頼んでいる様子がない。カウンターの左隣に座していた酔客も(かなり出来上がっている様子)、前にそれらしい痕跡がない。すでに、食べ終わり、証拠を隠した(店の人が片付けた)のかもしれないが、と思っていると、やおら、「へしこ、と、ライス」と女将に呟く。
 「やられた」
 確かに家に買って帰った、へしこを温かいご飯と一緒に食べるのも、至福のひとときなのである。しかし、すでに遅かった、わたくしの目の前のへしこは幾分の糠の滓を除くと、跡形もなかった。
 次回は隣の客のようにしよう、と思いながら、以来、3年が過ぎようとしている。